【day13】青さ

「早いものですね」と縁側に並んで座る君が呟いた。

 秋の暮れにしてはあたたかい夜だった。もうかれこれ七十年、妻と出会ってからは五十四年もの間見続けた月は変わり映えしないものだったが、「うん、早いものだね」私たちは違っている。

 子供たちは巣立ち、孫の顔を見ることもでき、仕事は退職して久しい。年金もあり貯蓄も十分で老後は緩やかに過ごすのだろう。余生というにはいささか長い気もしているが、昔から言われている理想通りの人生が送れていると思えば不満もなかった。

「旅行にでも行こうか」

「あらいいですね。国内でも国外でもお供しますよ」

 妻のこういったおおらかな芯のある言葉にどれだけ救われたのだろうと不意に思った。

「ありがとう」

 口元を隠して笑った妻は「分かっていますよちゃんと」言って湯呑のお茶を一口飲んだ。湯呑を置いて「ふふっ」と笑みをこぼす。「何か思い出した?」

「あなたが海外転勤するときのことを少し」

「必死だったんだよ」

「そうでしょうね。あんなに必死なあなたは後にも先にも見られそうにありませんから」

「結婚してようやく一年のそれも子供が生まれたばかりの時期だ。単身赴任だろうと家族ごとだろうと大変なことに違いない」

「断るという選択肢もあったでしょうに」

「だから必死だったんだ。あの若さで海外転勤なら昇格も早いし役員になる道もできるんだから。まあ結局部長止まりだったけど」

「理由はそれ以外にもあったのでしょう?」

「今になってそれを聞くのかい」

「今だからでしょう」

 妻はまた同じように笑った。こうして笑うときの妻は私の全てを見透かしているのではないかと思うほどに鋭い。

 証拠をそろえられて自白を迫られている犯人のような心持ちをしたのは何度目なのかも覚えていない。浮気未遂の時は死を覚悟したほどで、それ以降隠し事はしないと私は誓ったものだ。「憧れだよ」それらの苦みはもはや懐かしさすら覚える。

「衆俗的なあれですか?」

「そうだね。漠然としたあれだ。外に行けば外の世界を見れば変われるという期待だ。あとは少しの見栄だろうか」

「羨んでみた結果はどうでした」

「案外変わらないものだったよ。むしろ迷惑をかけたことへの後ろめたさが日に日に大きくなったね」

「私たちが足枷にならなかったら?」

「いや、分からないが変わらなかったのじゃないかな」

「それはまたどうして」

「なんと言うかね、憧れを追うにしては理想に近づきすぎていたんじゃないかと思うんだ」

「後悔は?」

「実はそんなにないんだ。振り返ってみると、君がいれば満足だった気もする。まあもはやその段階にいないということもあるだろうけどね」

「では国内を巡りましょうか」

「そうだね」

 私はタンブラーに入った月を飲み干した。