レースに臨む際の心構え
皆さん、ご機嫌うるわしゅう、ウェルビーイング池上です!
今回はレース前に臨むに際しての気持ちについて書いてみたいと思います。
皆さんご存知の通り、我々人間は普段どれだけ良い練習をしても、最後は心持ち1つで結果は良くもなれば、悪くもなります。中には私のことをサイボーグか何かだと思っておられる方もいらっしゃるようですが、これは私も同じです。
また、市民ランナーの方の中には、プロの選手ともなると緊張しないと思われている方もいらっしゃるようですが、全然そんなことはありません。まさに生活がかかっているので、選手どころか奥さんまで緊張しているものです。
旦那の走りいかんで、生活が変わってくるわけですから、そりゃ奥さんだってピリピリするでしょう。いや、場合によっては、奥さんの方がピリピリするでしょう。
しかし、そんなことでびくびくびくびくしてたら、結果が出せる訳もありません。不安や恐れを取り除いて、レースに集中しないといけません。
しかし、だからと言って「勝とう、勝とう」と思ったところで、自信が出るわけではないですし、「勝とう」と思うとやっぱりその対義語である「負け」が頭に浮かんできます。
一体全体どうすれば良いのでしょうか?
何人かの日本一経験者やインターハイ、国体、日本選手権などで入賞した選手にお話をお伺いしてみると、
1. 無になって走る
2. すでに勝ったと思って走る
の2パターンが多かったように思います。これは私の経験にも一致します。
2番目の方が分かりやすいでしょう。これはアファメーションやヴィジュアライゼーションテクニックを使って未来の記憶を作るのです。
しかし、1番目が分かりません。文字通り無なんですから、言葉で説明できませんし、だいたい本当に無なんてことがありえるのでしょうか?今私はこうやって無心に文章を書いていますが、それでも無ではありません。現にこうやって私の頭の中にあることがここに書かれています。
これが本当に無であれば、白紙でブログ出さないといけませんから、これでは仕事になりません。
しかし、思い返してみると、私にも無になって結果を出したという経験はあります。本当の意味での無ではないのですが、あれが皆さんがおっしゃる無になって走るということなんだろうなという経験です。
しかし、これを伝える術をずっと持ちませんでした。
ところが、先日中村天風という先生の『心に成功の炎を』という本を拝読していますと、腑に落ちる記述がありました。中村先生はもともとは軍事探偵(スパイ)として日清、日露戦争に従軍し、孫文の辛亥革命のお手伝いをして、そのあと日本に帰ってこられた方です。
この無になるということを分かりやすく解説した話、どんな話かというと、徳川幕府第三代将軍家光のもとに朝鮮から虎が送られてきたことから始まります。家光という人は歴史に名を残すえらい方ですが、若いころは暴君そのもので、夜な夜な身分を隠して、辻斬りに出ていたそうです。
辻斬りというのは、特にこれといった理由もなく、道端で刀を差してる人間に出会ったら「手合わせ願う」といって、切りつけることです。負けなかったところをみると腕も確かだったのだと思います。
とまれかくまれ、そんな家光のところに虎が届いたんであります。以下『心に成功の炎を』から抜粋します。場面は檻に入れた虎を前に、家光が家来を集めたところから始まります。
「吹上御苑(ふきあげぎょえん)に虎の檻が据えられている。綺羅星のごとく、大名、旗本を左右に従えて、家光が着座。しかし、旗本の連中、とくに暴れ者どもは落ち着かない。ひょいとすると俺じゃねえか、おまえかもしれないと、なるべく将軍に目の届かないような、人の陰に隠れているようにしているやつが多かった。
すると、やがて、家光が、
「今日の催しは、朝鮮国渡来の虎の中に人間を入れる。さよう心得よ」
皮肉にも一座をずうっと見渡したんだから、見られるやつは皆隠れるようにしてね。傍らに控えた柳生但馬の守を振り返った家光が、
「但馬、そち、入るか」
もちろん嫌だと言ったら入れまいとは思ってる。ところが、嫌というかと思いのほかの但馬の守、「はっ」と恭しく一礼して悠然と立ち上がった。手早くたすき十字にあやなし、門弟に目配せをすると、お城の道場から急いで持ってきた赤ガシの木剣、それを右手に、虎の檻へと静々と近寄る。
見ていた大名と旗本、「なるほど、やはり竹刀一本で録一万石、どうでござる五分の隙もござらんな。あれで虎の檻の中に入れば、いかに虎といえども、いかにどうすることもできもうすまい」
うわさをし合ってるのを後ろに聞き流して、但馬の守、虎の檻のわきに来る。番卒に、「開けろ」というと、手早く開ける。ひらりと中に入った。ピタリとつけた。
これは油断も隙も出来ないでしょう。何しろ相手が虎なんだからね。面籠手つけたやつを相手にするなら、柳生但馬の守、何人来たってびくっともしない。おそらく但馬の守としちゃ生まれて初めての相手である。
赤ガシの木剣を中断にジリリと構えたものの、一息つく間も気合を緩められない。とにかくこの虎は、すきがあったら飛びかかろうと、牙をむいて、爪を研いでいて、ちょうど獲物に飛びかかろうとする姿勢の虎。それを中断に構えた木剣の陰にわが身をかばいながら、ジリッ、ジリリッと進むと、虎もこの剣勢におされたか、但馬が一歩前へ出ると、虎が一歩後ろへ引く。ジリッ、ジリッと静かに追い詰めて、とうとう虎が虎の檻の角に。
さあ、見ていた旗本と大名はやんやという拍手喝采だ。
「さて、えらいもんだなあ。虎もあれだけの名人になると、どうすることもできないと見える」。一同、感に堪えていると、将軍が、
「但馬、もうよかろう。出ろ」
「はっ」
出ろといったって、そう急には出られませんよ。相変わらず体は崩されない。前と同じように、また、ジリッ、ジリリッと、小刻みに体を後ろへ。ようやく虎の檻の戸のところに来ると、「開けろ」、後ろを向かずに声をかける。番卒がすかさず戸を開けると、ひらりと外へ飛び出して、ピタリと戸を閉めて、ホッと一息つくと、但馬の前身は脂汗でぬぐわれたようになってる。それはそうでしょう。命がけの勝負だもん。
しかし、無事に出られて、面目を施して座にもどる。
家光、皮肉な笑いを片頬に浮かべながら、
「もう一人、入れる」。また旗本の方を見たんで、また旗本の連中は隠れるように家光の視線を避けた。家光、さんざん皮肉に一座を見回しておいて、
「さて、この次は誰にしようかな」
わざと自分の後ろに控えている沢庵禅師のほうを一番最後に見て、
「どうじゃな、禅師、御身ひとつ入ってみるかな」
きっと、「愚僧はご辞退つかまつる」と言うだろうと思って言った。
そうしたら、にっこり笑って、スッと立ち上がった。ふらふらっと歩き出した。片手に数珠をさげて、片手はふところ手。
見ていた旗本と大名が、「これは大変なことになっちゃったよ。禅師、お断りすりゃあいいのに。あれあれ、檻の方へ行くぜ。じゃあ覚悟したんだ。寺から里へというたとえはあるがな、里から寺になりそうだ。坊さんに引導渡される話は聞いたことあるが、きょうは坊さんが虎に食われるのを見て、こっちが引導することになったかなあ。但馬の守殿と違って、すきだらけだがな、あれ。ええ?あれ、入るつもりかな、本当に。しかし、まあ、とにかく断るならこの場で断るだろうが、断らずに歩み寄るとこを見ると、断らないつもりだな。え?悟りが開けてるから覚悟してる?ああ、食われるのをか。しかし、気の毒だ」
口さがなき人々のあれやこれやのうわさを聞き流して、虎の檻の戸のそばまで来た沢庵、
「開けろ」
番卒が手早く開けると、のっそり中へ入ってきた。
そうすると、今まで但馬の守においすくめられて小さくなっていた虎、それがムクムクムクッと起き上がりやがった。
さあ、大名と旗本、「さあ、おい、いよいよ飛びかかるぜ」
手に汗握ってみていると、飛びかかると思いし虎がさにあらず。立ち上がると同時に、沢庵禅師の衣のすその周りを、さながら飼いならされた猫が主人の裳裾(もすそ)にまつわるがごとく、快しげに足元を二度、三度回った。やがて、沢庵禅師の足元にコロリと横になって、のどをゴロゴロ、ゴロゴロと鳴らしている。
虎でも猫でも獅子でもね、機嫌のいい時はのどならすのよ。
そののどを鳴らして寝転んでいる虎の頭を、右手に下げた数珠でもってかるく、なでるようにたたいている。見ている大名と旗本、
「ありゃりゃりゃりゃ、なれ合いのことを八百長というが、これは八百長か」と心中で思ったが、そんなことは言いやしません。
一番先にびっくりしたのが家光であります。
「はて、不思議な光景じゃ」
いつまでたってもやってるもんだから、
「もうよかろう、禅師」
「さようか。おとなしくしとれ。また来るでな」
生ける人間に物言うがごとく、虎にそう言い残して、今度は但馬の守とは全然打って変わって、クルっと虎に背を向けて、人の家をいとまごいしてくるのと同じように、悠々と出てくる。虎もその後を追っかけて、「坊さん、まだいいじゃねえか」というような様子。
虎の檻の戸のところに来て、もう一度振り返った沢庵が、「また来るぞ」といって、平手で虎の頭をなでて、そして悠々と外へ出てきた。汗も何もかいていない。
まったく思いもよらないこのしぐさに、やがて酒盛りが始まる。家光将軍がまず但馬の守に尋ねた。
「但馬、そちは如何なる心構えにて虎の檻にうちいりしか」
「さればにござりまする。やつがれ、もしも虎に近寄らなば、日本武道の恥と心得、柳生流の真の気合をもって攻めつけましてござります」
「ほう、武術の力じゃなあ。沢庵禅師、御身は?」
「何の存念もございません」
「何の存念もないとは?恐ろしくなかりしか」
「いえ、毛頭」
「はて、異なことを承る。恐ろしくない。これは面妖な。百獣の王とも言われるところの虎が恐ろしくないか」
「されば、お答え申すも異なことながら、愚僧は仏道に精進いたすもの。虎といえども仏性あり。慈悲の心をもって接したままでござる」
頭から恐れていないんです。
「なるほど、こわくねえのか。それで平気で入ったんだな」と、家光も聞いてる大名や旗本も、この気持ちにいたく感激したという話です。
中村天風『心に成功の炎を』
私もこの沢庵禅師に似た気持ちになれたことが二回だけあります。もしかすると、もうちょっとあるかもしれませんが、似たようなシチュエーションということも含めて二回です。
1回目は、ティラノと鉢伏山というところを二人で走っていたときの話です。話は私が洛南高校3年生、ティラノが2年生の時です。普通に走っていただけなのですが、その時にクマが出没しました。
出没したといっても、すぐ目の前を横切っただけです。
その時、私はどうしたかというとそのまま走りました。ティラノはかなり怖がっていましたが、「大丈夫死ぬときは一緒や」と言ってそのまま走り続けました。この時、私は一切恐れを感じませんでした。
別に、「熊ごときに食べられてたまるか」と思った訳でも、「食べられない」と思った訳でもありません。食べられるとも食べられないとも、大丈夫とも大丈夫じゃないとも思いませんでした。走っていたから、そのまま走り続けただけです。
結局、クマはそのままどこかに行きました。私は私でそのまま走り続けました。
2回目は御嶽山というところで、住み込みのアルバイトをしていたときに、自転車に乗っていたら、クマと鉢合わせしたんです。私が通る道にクマがいたのです。その時も私はクマの横をそのまま自転車で通り過ぎました。
この時も大丈夫とも大丈夫じゃないとも思いません。電信柱があったら、それを避けるでしょう。それと同じでクマがいたから、クマに当たらないように横を自転車で通り過ぎました。
私の場合は、沢庵禅師ほど人間が出来ていないので、さすがにクマは私のところには寄ってきませんでしたが、向こうが逃げていきました。別に威嚇したわけではないですよ。私は隣を自転車で通っただけです。
しかし、今思い返してみると、クマの方も私が通り過ぎるのをちゃんと見送っていってから逃げていきました。クマの方も私を恐れなかったのではないかと思いますが、どうでしょう。
この時の虚心坦懐な気持ちこそが、レースに臨むにあたってもベストな心境なのではないでしょうか。
レース編で言えば、中学校3年生の都道府県対抗男子駅伝を走った時もそうでした。この時、都道府県男子駅伝というのは毎年広島で行われる都道府県ごとに作った選抜チームでの駅伝です。
私は中学生区間の6区を走らせてもらいました。この時、私は何故だか分かりませんが、自分が区間賞撮るんだなと思いました。勝負に生きるものの宿命として、勝たねばなりませんから、レース前に「勝てる」「イケる」と思い込むのは当然です。
しかし、この時はそういった思い込みとは別に、インスピレーション的なもので、「あっ、俺今回区間賞撮るな」とインスピレーションが湧いたんです。
しかし、こういうのは意識したらダメなんです。意識すると、雑念が湧いてきて、獲れるはずの区間賞が獲れなくなります。でも、一度意識したらもう駄目なんです。もう頭から離れません。
この時私は頭の中で、マントラのようにずっと「人生意気に感ず、功名また誰か論ぜん(人生意気に感じてやったのであれば、だれがその成否を問うだろうか?いや、誰も問わない)」という言葉を唱え続けました。
なんとか「区間賞を獲るとか獲らないとか」の境地から脱した私は無事に区間賞が取れました。
この時の状態は無ではありません。区間賞を獲るための準備や戦術は必要なので、最後の最後まで抜かりの無いように、寧ろ考えすぎて頭がとても疲れました。距離的にはたった3キロですが、動けないくらいに疲れ切りました。
でも、虚心坦懐ではあったと思うのです。雑念は消えました。
そもそもの話をすると、長距離走・マラソンだからと言って特別な心持ちというのはなく、事に臨むにあたってはそういったあるがまんまの気持ちで臨むのが一番なのではないでしょうか。
リラックスともまた違うと思うんです。リラックスしようと思うと、その対極にある緊張を意識せざるをえなくなります。
私がここで書く「虚心坦懐」を言葉にするのは難しいですし、私は皆様のように人間が出来ていないので、こういった気持ちにいつもなれるわけではありません。
しかし、あえて言葉にするなら真心込めるということではないでしょうか。純な気持ちと書いても良いかもしれません。
長距離走・マラソンで結果を出すには、頭を使った方が良いに決まっています。初めから何も考えていない人と少しでも良いから勉強したり、情報収集したり、試行錯誤をしている人とでは差が大きく開きます。
でも、勉強して、考えて、自分なりに試行錯誤して、最後スタート地点に立つときは、虚心坦懐に走ったほうが良いのではないでしょうか。
無心と言えば、無心だとは思うのですが、無心になろうなろうと思えば思うほど雑念が出てきます。これを「不思量底をなさんとして思量底に堕す」と言います。
レースに臨む時の気持ちは、「無心になろう」と思って作るものではなくて、絶対的な自信と言い換えても良いと思います。この絶対的な自信というのは「絶対勝てる」とか「絶対このタイムで走れる」という気持ちではなく、もっと抽象的な根拠のない「大丈夫」という気持ちです。
「もし、ダメだったらどうするんだ?」と聞かれても、「そん時はそん時だ」と答えられるような気持ちです。
「30キロ超えてきつくなったら、どうする?」
「大丈夫。そん時はそん時だ」
「スタートしてみて体が重かったらどうする?」
「それでも大丈夫」
「今日はいけそうか」
「いけるかいけないかはやってみないとわからねえじゃねえか、おい。そんなことは考える必要がないんだ」
みたいなこんな感じです。一種の開き直りだと言っても良いと思います。しかし、沢庵禅師は開き直ったのではないでしょう。恐怖の限界に達して、開き直ったのではないと思います。初めから慈悲の心をもって虎に接したのでしょう。
レースに臨むにあたっても、「出来るか、出来ないか」「勝つか勝てないか」などと考えていては、なかなか最高のパフォーマンスを発揮するのは難しいのではないでしょうか。それよりも、沢庵禅師のように、あるがまんまの真心を持って臨むのが良いと思います。
少しでも何かが伝わりますと幸いです。
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