私のモットー

何事も前向きに🎵

私のプロフィールも含まれますが、良かったら読んでいって下さい😊

私は、地方で自営業を営む家の長女として産まれました。

父方の祖父母、父母、弟妹、父の弟の8人家族。
兼業農家で稲作もしていたので、人手が足りないときには、事務所の電話番、掃除機かけ(6畳9部屋と廊下)、皿洗い(最高6人分の弁当箱も)、洗濯物たたみ(8人×最高3日分)などの手伝いを、小学校低学年からさせられていました(おかげで、物事を効率良くこなす力がつきました😁)。

そんな我が家の父は厳しく、「お出かけは、自分の知識が披露できる所」「白でも、俺が黒と言えば黒❗」「大学は県内に限る❗」のタイプ。私も持ち前の頑固さから、よく衝突し、それでも折れない時にはビンタされたこともありました。

そんな関係のまま大学(合格したので県外)に進学したので、私の中での父は「お金を出してくれる人」という位置付けでした。でも、夏休みに帰省すると、離れていたせいかお互いに優しくできて、腰が痛かった父を私が現場に乗せていくこともありました(思えば、この夏休みが唯一の父孝行でした)。

そして、大学に戻ってしばらくたった9月の半ば、叔父から電話がかかってきました。叔父からの初めての電話だったので、不思議に思って出てみると、
「父に病気が見つかって、すごく悪いから、休みをもらって帰って来い。」
というのです。言われてすぐに帰れる距離ではなかったので、大学で手続きをして、実家に帰りました。

帰ってみると、父はすでに入院していて、母と祖母が交代で泊まり込んでいました。高1の弟と中2の妹がいたので、私が家事や弁当作りをしました。
病状について詳しく聞くと、「癌が見つかり、手術のできない位置で、余命を告げられた」との事でした。

1週間くらいして大学に戻りましたが、連休がある度に4時間半かけて実家に帰り、実家の家事をしたり、母や祖母と病院に泊まり込んで看病の手伝いをしたりしました。

あんなに「俺様」だった父が、徐々に首から下が動かなくなっていき、飲み込みも悪くなり、意識ははっきりしてるからイライラして当たり散らし、無理なことを言い出し(病院の焼き魚が冷えてるから、病室に七輪を持ってきて焼け!など)、変わっていく父を見て、腹がたったり、悲しくなったり▪▪▪。

その状態が7か月間続き、私が実家に帰っていた春休みに、45歳の生涯を閉じました。

更に、クラスメイトが17歳で病死したり、父の伯父も癌で若くして亡くなったりしていたので、私も「もしかしたら長くは生きられないのかも」と、漠然と思うようになりました。
もしそうなら、やりたい事や、やるべき事をやって、穏やかに逝きたい。と思うようにもなりました。

だから、子どもが産まれたら、「私が45歳(父の亡くなった年齢)になる前に伝えるべきことを伝える」ために、父に負けず劣らずのスパルタで、でも、子どもと一緒にバカになって育てました。まだまだ、たりない所はありますが、今、もし、私に何かあっても大丈夫だと思う力はついてます。

なぜなら、一昨年、私が2週間入院した時に、ほとんどの家事を子ども二人でこなしたからです(旦那はお手伝い😅)。

後は、やりたい事をやるだけです。
このnoteを始めたのも、その一つかな😊
今のところ、まだ人生は続きそうなので、「何事も前向きに、悔いのない毎日を積み重ねていくこと」が、私のモットーであり、毎年変わらぬ年始の豊富です👍

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