#02
眩しい。
横に目を遣ると、水面の反射した白日が容赦なく目の中を刺してくる。
2008年、8月。その後10年余りに渡って、わたしが執着し続けた思い出がある。
できごとはたった一回なのに、過剰に取り出しては眺めていた。そのせいで、いまとなっては年季の入ったぬいぐるみのように色褪せて、中の綿もしぼみ、もう元の形が分からなくなっている。
あの日。四国の、とある有名な河川をカヌーで下ろうという企画に、親族らがいつのまにか応募していたのだった。弟、従弟と共に参加することになっていた。急に言われたのもあってあまり気が進まなかった。ただ、こういうことには慣れっこになっていたので、わたし達は特に何も言わず、言われるがままに従った。たった五日間の企画だったが、相当の不安があった。
個人行動で街中にさえ出ることが許されていなかったのに、突然こういった抜き打ちテストのような試練が与えられることはままあったが、このときはそれまでとは不安の規模が段違いだった。出発の日、母がいかにも今生の別れかのように泣いたりするので、余計に彼女の無邪気な本性に基づく卑しさ・厭らしさが際立って見えた気がして、虫の好かない思いがしたのを覚えている。
当時小学校を卒業する年だった。企画の参加者には一日ごとの日程が書かれたしおりが配布されていた。夜行バスではほとんど寝られなかった。カーテンを少し開けて、そこから夜の路面の白線を目で追う遊びをした。すぐに飽きたので、しおりに軽く目を通す。とはいえ、もうすでに何回か入念に見てスケジュールの内容は頭に入れていた。春休み中に教科書をすべて読み終えてしまうような子だった。前述したような不安の大きさも、念入りな確認を後押ししていた。
ひとつだけどうでもいいと思って飛ばしていた部分がある。班員の名簿だ。こんな名前を羅列されても、いまは関係ない。そう思っていたが、あまりに寝られる気配もないのでなんとなく上から順に見ていった。一番上に、海瀬 昌、小6 とあった。次にわたしの名前と学年。その下に緑 隆平、小5 ....
寝る気配もないと思っていたのに、気が付いたら瀬戸大橋を渡っているところだった。海が鉄骨と高速で入れ替わり、少し引いた目線で見ると一続きの水平線と煌めく水面を確かめることができた。
遠いところに来たのだと思った。弟と従弟は同じ車中にはいるが、このキャンプではそれぞれ別の班だった。今初めて、自分がほんとうに独りであると感じていた。孤独とは違かった。わたしが私自身であるという感覚だった。学校にいるわけでもなく、実家の関係者といるわけでもない、毎日どれだけ自習しているかや、掃除や給食当番をまじめにやっているかも、これまでに友だちと接してきた愛想の良さも、ここでは「わたし」に関して何の前提も存在しない。土台がゼロ。それならば。
車中、わたしがあまりにも寝ずに、かといって年相応に騒いだり不安がるでもなく黙って静かに外を見遣っているので、何か思ったのだろう添乗員のお兄さんが、細かく世話を焼いてくれた。帰りの夜行バスも同じ人だったのだろうか。記憶がだいぶ曖昧になっている。わたしの色褪せた記憶では、帰りは特に気を遣って声掛けをしてくれたのを覚えている。五日後、帰りのバスで私は、行きと同じかそれ以上に静かに、黙って声を押し殺して涙をこらえていた。添乗員のお兄さんは優しかった。
キャンプ場に到着した。荷物をもって着いた先は、一面芝生の緑だった。風が心地いい。ここは知らないレジャー地の一角。「わたし」の要らないところ...
夕飯は班員で作るカレーだった。カレーを作りながら、明日から始まるカヌー旅のためのバディを大学生のリーダーから伝えられた。リーダーは「りんご」と書かれたネームプレートを首から下げていた。無愛想に生返事をする。こんな返事は学校でも親戚の家でもしたことがない。私は人参を切るのに集中していた。人前で料理など家庭科の授業以外でしたことがない。それでさえ連るみ仲間の料理が好きな女の子が勝手にやってくれるので、そばで適当に彼女を持ち上げつつ言われた通りに皿やザルを洗っていただけだ。
案の定緊張から殺気立っていたのを見かねたのか、リーダーのりんごが気をきかせて適当でいいよー、と声をかけてくれた。キャンプの最終日に一人一人のしおりにリーダーからメッセージを貰うのだが、キャンプ初期の私はかなり班内の親睦を深めるのに消極的だったらしい。自覚はなかったが初めてことが多くて自信がないのもあり、班員のことを一歩引いて見ていることで格好つけようとしていた節はある。今思えば、一周回って年相応のような気もする。
カレーが出来上がる頃にはすっかりおなかが空いていた。飯盒で火を起こして炊いた飯にカレーがかかった時点で食べた。いつのまにか隣にいた男の子たちが「早っ」「フライングし過ぎ~」と容赦なく突っ込みを入れてくる。こんなことはあまり経験が無かった。学校で、わたしは何でもできる神童扱いをされていた。もちろん学年が小さい頃は男の子と駆け回って遊んでいたものだが、高学年でクラス替えもきっかけになり、そんなことは遥か昔のことになっていた。小学生の数年前なんて、現代から恐竜の時代に遡れるくらいの話なことはお分かりだろう。
そして、彼らがバスの中でかろうじて確認した班員の名前... 海瀬と緑、わたしはこの2つの名前に痛く執着し続けた。彼らと5日間で築いた友情は年相応に素直で、純粋なものだった。しかし年月は過ぎて、思い出は強烈で、そこで経験した私の自由は、忘れるには余りにも鮮烈過ぎた。
キャンプが終わり、「私」から「わたし」へ戻った先での閉塞感は、自由を感性ですっかり知ってしまった私には耐えられないものだった。毎日あの夏の日々を夢想した。学校で積極的に友だちと連るまなくなった。唯一の親友は彼らだけだ。一生大事にすべき友だちとは彼らのことだ。私は手紙を書いた。返事が二人共から返ってきたときは嬉しかった。何度も何度も読み返した。どうでもいいことが書いてあるし、冗談みたいな文面で、また3人で会おうな、と。閉塞感に潰されそうだった私はそれでなんとか息をつないでいた。一か月に一度は手紙を出そうと決めた。2通目に返事が返ってきたのは海瀬からだけだった。でもまだ年賀状は二人ともやり取りしていた。一生の友だちだと信じていた。一生忘れられることはないと信じていた。苦しい生活の、毎日のようにもたらされる、どうにもならない感情の行く宛のない旅路の、唯一信じられるオアシスだった。彼らの言葉だけが、日常求められ続ける「わたし」に埋没させられてしまう「私」の存在を、思い出させてくれた。
3通目からはどちらからも応答がなかった。中学生にあがる頃には年賀状も返ってこなくなっていた。私は自分自身の共有先を見失った。もうあの日の私を覚えている者はいない。残ったのは「わたし」のみ、結局。求められる「わたし」ばかり、中学校ではイメージが先行するようになった。一年生の時はまだ楽しめていた。海瀬や緑に代わる友だちができたかとさえ思えた。しかし学年が上がり、2年間通して担任だった先生が母親と似た女教師だった。彼女は「わたし」を求め、歓迎した。「私」はいないかのようだった。1年生の時にいっしょにふざけまわっていた男友達も、最初は心配してくれたが私が応えないため離れていった。わたしは抑圧に弱かった。
高校生になった春。緑と再会した。会いに来たのだと彼は言った。その目を見て私は絶望した。彼が見ているのは私ではなく彼の求めている「わたし」だった。彼は「わたし」に恋していた。私は、何度か会ううちに今まで会ってなかった部分も埋め合わせて、そのうえで付き合わなくても、あの時のように仲良くできたらと思い、彼の告白を承諾した。
しかし二度めに顔を合わせる機会は失われた。両親はわたしの携帯の履歴の閲覧や、電話の盗み聞きや、手紙の内容をわたしよりも先に確認することになんの躊躇もなかった。特に父親は激しかった。メールや電話では今の彼のこともわからないし、私のことも伝わらないと思っていた。彼の住んでいる土地を知りたかった。友達と遊びに行く、といって旅費を得るところまで成功した。あとは寝て時間通りに起きるだけ...
深夜に父に起こされた。明日どこへ行くのだという。携帯の履歴も、最近の電話の相手も、メールの内容もぜんぶ見たと言う。母が起きてきた。父が自分の見た内容を母に話すと、いつものヒステリーが始まった。嫌な予感はしていた。でも、今回行けないだけだと思った。母が次の一言を発した。「今この場で、電話で私たちにもはっきりわかるように、別れなさい」
別に彼と男女交際がしたいわけではなかった。ただ、もう無くなったと思っていた唯一の友情が、形を変えて戻ってきてくれたのだと思っていた。海瀬と緑の存在は、この永遠に続くかのような閉塞された空間の中で、唯一の光だった。ただもう一度繋がれただけで充分だった。せめて。せめてこれからも会える可能性を。どうしてこの人たちに奪う権利があるのだろう?...
電話で直接その場で言うのは辛すぎたため、メールで泣く泣く文章を打った。父はその文面さえも見せるように言った。きちんと、親に言われたけど本当は、という誤魔化し無しに、私自身の言葉によって、別れを伝える文章になっているかどうか、見るために。彼は明日の朝起きてこれを見るのだろう。きっと私と同じようにわくわくして眠りにつき、今日やっと会えると思って携帯を開き、そして唐突な別れのメールを読むのだ。いったいどんな気持ちだろう。わたしのことを意味の分からん奴と思って怒るだろうか。相手の立場になってみればがっかりはするだろう。さらにもう会えないということまで書いたのだから。翌朝、下を向いて朝食を食べた。本当なら今頃電車に乗っている時間だった。机に突っ伏していると、母親が少女漫画をどさりと山積みに置いた。「これでも読んで、いい恋愛をしなさい」と言われたので、耳を疑った。昨日の、晩に。お互い成長して、友情が恋愛に変わったのならば、それなりに。今のお互いを知って、たくさんいっしょに居る時間を過ごして。わたしたちなりの「いい恋愛」を育んでいくつもりだった。彼は情熱的過ぎたかもしれないけれど、私は割と冷静に今後のことを考えていた。決して勢いに乗って遠距離恋愛のロマンスに浸っていたわけではなかった。いや、それでさえ、十代の若者同士には経験する権利があっていいはずだ。それなのに。最も最悪な形で、私たちの関係を修復の難しい形で壊させたのは。どこのどいつだというのか。それを。
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緑とは、その後大学で一人暮らしを始めてから再度交際した。結局彼が「私」を認めることはなかった。彼に求められる「わたし」はもはや私ではなかったので、お別れした。年月が更に経過していたこともあり、緑の「わたし」像は「私」からすれば歪みに歪んでいて、そして緑はわたしのことを「女」の括りでとりあえず扱った。私の中で、海瀬と緑は小学生のころのまま、時間が止まっている。彼らにはもう会えない。
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