優しさと自己犠牲
この前親友のお家に泊まったときのしゃぼん玉の写真を添えておきます。
それはさておき
私はずっと、優しくなりたい優しくなりたいと願い続け、言い続けてきたけれど、
とうとう、優しさとは何かという哲学にぶつかってしまった。
いつかはこうなるんだろうなと思ってたけど!
自己犠牲は優しさなのかな
優しさの形としての自己犠牲もあるけど、それが実は優しくないってパターンもあるんじゃね?と
自己犠牲には優しさも含まれているかもしれないけど、それ以上自己憐憫が含まれていることも多いような気がして…
それは絶対悪ではないし、私もそのタイプだからわかるんだけどね、自分が何かを我慢したり犠牲にしたりすることで自己を肯定する理由を見つけた気になってるんだ、たぶん。
少なくとも私の場合はそうなんだと思う。
否定されたくないから、自分を褒める理由がほしいから、自分を犠牲にしてまで誰かを優先する。
でもそれは、結局相手も喜ばなかったりする。
そして自分も虚しくなったりするし、全然ヘルシーじゃない!
もっとヘルシーな優しさがほしい。
そもそもそんなの優しさじゃないことのほうが多いぞ!!!
自分と相手にちゃんと境界線をつくって、
基本的には優しいんだけど、ある一定のところまで私を犠牲にする必要が出てきたら助けませんよ
みたいな、そんなのに憧れる。
もちろん、本当に大切な人のここぞというときには、精一杯助けようと思う。
私の大切な人が私のために必要以上の我慢をしているのなら、私はとても悲しい。
そんなことしなくていいんだよ、って言ってあげたくなる。
なのに自分は我慢して、それでいてどこかで褒めてもらいたくなってる。
こじれてるなぁ〜私
もっと基本的な、健全で自然な優しさがほしい。
たとえば、私の兄のような。
兄(実際に兄って呼んでる)はとっても優しい。
自分が本当に嫌なときははっきりノーって言えるし、でも断り方はマイルド。
あからさまに優しい言葉を使うわけではないのに、なーんか優しい。
でも、優しいな〜って思うような行動をしているときでも、たぶん兄は優しくしてあげようなんて思ってないみたいなんだよな。
心からの、ナチュラルなやさしさ。
その人本来の性質。
私がイスに立って作業をしているときに
何も言わずにそっとイスを抑えてくれたり。
私が親といろいろあっても無理に聞き出さず
話し合いするんなら俺も同席するよって。
私の好きなアイスを把握していて、たまに何も言わずに買ってきてくれて、何も言わずに冷凍庫に入れてくれて、私がそれを食べても何も言わずに平然とした顔して、お礼を言ったら「ほーい」みたいな返事をして、
兄が1人で何か食べてるときに私が横に来ると無言でひとくちくれて、そのあとお茶もくれる。
素敵すぎる…
伝わりますか、この素敵さが!!
何度も何度も助けられた。
幼少期の私の写真や動画を見返すと、それらを撮っているのはほとんど兄だった。
思い返してみれば、
一緒につみきをしたのも、幼稚園で習った歌を披露したのも、庭でスイカバーを食べたのも、私の砂遊びを見守ってくれたのも、私をぎゅっとしてくれたのも、
ぜーーんぶ兄だった。
他の家族も構ってくれたけど、兄がダントツな気がしている。
今では一緒につみきはしなくなったし、そもそも生活リズムが合わないので会話することも少なくなったけど、やっぱり大好きなだなぁと思う。
きょうだいを好きでいられるってとっても幸せなことだし、恵まれてると思う。
それだけで、生きていこうと思ったりする。
ありがとう。
シンプルに、ありがとう。
存在してくれてるだけで心強いよ。
あんまり喋らないけど、仲良しだって言える。
兄をめざそうと思う。
憧れの人を聞かれたら、兄の名前を出そうと思う。
兄を知ってる人ならみんな納得するだろうな〜
まずは兄を観察するところからはじめてみよっと
そして、心の中で擬似兄を育てよう。
いつかは私と同化しますように。