「隣の救世主」第1話
電車に揺られながら、イヤホンでお気に入りのプレイリストを聞く。
そうすると、頭のネジがゆるみはじめて意識がふわふわと溶けるような感覚になる。
今日も、会いたくもない人と会い、話したくもないのに話して、笑いたくもないのに笑った一日だった。
チャイムが鳴るのとほぼ同時、誰よりも早く学校という社会から抜け出して、こうやって一人電車に揺られていると体の表面に張った薄い鎧がばらばらと剥がれ落ちる。
そうすると、やっと自分自身を取り戻せるような気がした。
いつものように心地よい揺れに意識を手放そうとした、その時。大きな衝撃音とともに、鼓膜をつんざくようなブレーキ音が響き渡った。
車内をぐるりと見回しながら、イヤホンを外す。
聞こえてきた車掌のアナウンスは、ホームで人身事故が起こったということを知らせた。
それから間もなく電車内の電気が消え、俺が乗る車両がちょうどトンネルの中で止まったせいで真っ暗になってしまった。
ぼわっと人の顔を照らすスマホ画面の明かりが不気味だ。
つり革を掴んだまま一心不乱に何かをスマホに打ち込む人たちを横目に、再び耳にイヤホンをつける。
自分が焦ったところでこの状況が変わるわけではない。今できることと言えば、電車が再び動き出す時が来るのを静かに待つことくらいだ。
「……あの、すみません」
目を閉じて意識を向けたR&Bの奥で、誰かが呼びかけるような声が聞こえた。
薄目を開けて視線を走らせると、膝の上に何かが乗った感覚を感じる。
何度かまばたきをして、隣に座る誰かの手が乗っているのだと分かり、思わずはっと息を呑んだ。
恐怖か緊張で体が固まり、錆びついたロボットみたいな動きで振り向く。
そしてスマホの画面をこっそり隣の方へ傾けて画面の明かりで確認すると、大柄な坊主頭の男子が浮かび上がった。しかもその相手は自分が着ている制服と同じものを着ている。誰?
俺の学年では坊主頭なんて見たことがない。
体格的に後輩ではなさそうである。だとすれば先輩になるが、一体どういうつもりなんだろうか。
抜け出した社会が自分の足元の影からじわじわと広がるようだった。
先程緩めた頭のネジをキュルキュルと締め直し、イヤホンを外して相手の方を見上げる。互いの視線が彷徨った後、暗闇の中で絡んだ。
「あの、花咲学園ですよね」
「……そうですけど」
「俺もです」
「はぁ」
「俺、1年の山添っていいます」
「はぁ、そうですか」
これが1年? その図体で?という言葉を、寸前のところで相槌に変換した。山添との会話を最小限にしたかったからだ。
それにしても、まだ膝から手を離さないのは何でなのか。
目線を乗っかっている手に向けるが、気付く様子がない。なんとなく足を組むふりをして動かそうとするとぐっと力を込めて押さえつけられた。何で?
「あの、ホントすいません」
「え?」
「俺、閉所恐怖症と暗所恐怖症で」
「……え?」
「この状況、誰かと話してないと正気が保てないんです」
至って真剣な彼には悪いが、おいおい、勘弁してくれよと思った。
同じ高校の生徒なら他にも乗っているのに、なんでまた俺に声を掛けたのか。
どうせ暗闇で表情なんて見えないだろうが、うんざりした表情をごまかすように無理やり口角を上げた。
「俺は2年の栗田です」
「栗田先輩、部活は入ってないんですか」
「入ってないですね」
「奇遇っすね。俺も入ってないです」
「え、柔道部とかじゃなくて?」
「あはは、違います。よく言われますけど」
「へぇ」
なんだか紛らわしい見た目してるな、と密かに上から下まで視線を走らせた。
「俺、高校では手芸部に入りたかったんです」
「手芸部って、あの……家庭科の?」
「はい。でも顧問の先生にネタだと思われちゃったみたいで取り合ってもらえませんでした」
「ふうん」
相槌を打ちながら、スマホの時計を見る。
この繰り返しでかれこれ20分、後輩の山添の精神を安定させるための会話に付き合わされている。
何で俺がこんなことを……とは思いながらも、それなりに良い時間つぶしになっていた。
彼の家は商店街にあるクリーニング屋で、趣味は洋裁が得意な祖母から教わったビーズ刺繍とパッチワーク。ここ最近で1番嬉しかったことは、自分専用のミシンを買ってもらったことらしい。
こんな調子で、見た目からは到底想像できない山添の情報が次々に放り込まれてくるのである。
そして悔しいことに、いつのまにか自分から質問をするほどには、山添に興味をそそられていた。
「じゃあさ、休みの日は何やってんの?」
「最近は、ケーキっすね」
「ふうん、食べるの?」
「作る方です」
「……マジ?」
「ばあちゃんがチョコ好きなんで、この前はチョコレートケーキ作りました」
「これは、クオリティおかしくない?」
「まあ見様見真似なんで」
「売り物じゃん」
「まだまだっすよ」
山添に見せられたチョコレートケーキの画像は、ケーキ屋のショーケースに並んでいても遜色ないような美しい見た目をしていた。
それなのに、この辺の焼き色がもうちょっときれいにできたらなぁとかぶつぶつ言いながら画面を閉じた。
「将来はケーキ屋?」
「それは無いです。暇つぶしなんで」
「暇つぶしで終わらせんのもったいないだろ」
「お世辞でも嬉しいっす」
「別に……お世辞じゃないけど」
言うつもりの無かった言葉がぽろぽろとこぼれ落ちる。山添と話していると調子が狂う。
なんとも言えない気恥ずかしさを暗闇に溶かしていると、山添はぽつりとつぶやいた。
「帰宅部って、結構時間あるんすよね」
「まぁ確かに」
「栗田先輩、放課後は何やってるんですか」
「……特に何も」
「趣味とかは?」
「特に」
「じゃあ、家帰ったら何やってるんですか」
「帰ったら、まず寝る」
「先輩って……めちゃくちゃ暇なんですね」
「さりげなく失礼だな」
「暇ならまた話しましょうよ。こんな感じで」
「まあ、気が向いたら」
山添との会話が弾む一方、電車は復旧の兆しがなく、車内には次第にイライラした雰囲気が充満しはじめる。
少し離れたところで男性と女性の小さな口論が聞こえ、何やら騒ぎが徐々に広がりだしていた。
子供の頃から人の口論を聞いていると、胸がざわざわして落ち着かなくなる。しかも、なぜか自分が怒られているような錯覚に陥り、胃がしくしくと痛んでくるのだ。
痛みはないが、痛くなる予感がして胃のあたりに手を当てる。
すると山添は、おもむろに俺の手にあったイヤホンの片方を手にとった。
「イヤホン、借りてもいいですか」
「……いいけど」
そして俺は、一番好きな曲を選んで再生した。
ちょうど1曲終わった頃、車内の電気がついた。
「あ」
よかったな、と声をかけようとして横を向くと山添は目を閉じてすうすうと寝息を立てている。
平和な寝顔を見ているとなぜか気が抜けて、笑みがこぼれた。
こっそりさっきとは違う激しいテンポの曲を選んで再生すると、山添は驚いた様子ではっと目を開いた。
「うわ、まぶし」
「そろそろ運転再開するって」
「あー、そうなんすね。よかった」
山添はほっとした顔になり、イヤホンを僕に返した。
これで山添との会話が終わってしまうのはなんだか惜しくて、僕もいそいそとイヤホンを外す。
「話、付き合ってくれてありがとうございました」
「いや、こちらこそ」
タイミングよく「電車が動きます」とアナウンスが流れた。
乗客のひりひりした雰囲気もいつのまにか消えて、すっかり平穏を取り戻す。
ゆっくりと車両が動き出して、トンネルを抜け、外の景色が車内に流れ込んだ。
「じゃあ俺、次で降りるんで」
「おお」
「また」
そう言って山添は席を立った。
駅に着いて電車から降りた山添の姿はすぐに見えなくなったが、何となくしばらく目で追った。
翌朝、学校に行くといつもとは違う雰囲気が漂っていた。
1階の廊下では何人かの1年生とすれ違ったが、皆一様に沈んだ顔に見えた。
山添がいたら何かあったのか聞いてみよう。
そんなことを思っていると、いつもなら朝練に打ち込んでいるクラスメイトの西沢が制服のままで歩いていた。
「西沢?」
「あ、栗田。おはよう」
「おはよう。柔道部、朝練は?」
「今日は中止」
「何かあったの? 全体的にざわざわしてるけど」
「昨日、人身あったじゃん」
「あ、それ俺が乗ってた電車だった」
「……マジ?」
「で、その人身がどうしたの?」
「実はうちの1年だったんだよ。飛び込んだの」
「えっ」
「山添ってやつなんだけど……」
がっくりと肩を落とす西沢の口から山添という名前が飛び出した時、思考が止まった。
しかし、俺が知る1年の山添は帰宅部だ。柔道部っぽい見た目ではあったけど。
そもそも、事故があった電車に乗り合わせていたのだから山添自身が飛び込める訳がない。
「山添って名前、1年に2人いる?」
「え?」
「昨日一緒の電車で帰ったんだけど」
俺の言葉を聞いて、西沢の顔色が変わった。
「同じ電車に乗ってたってことかよ」
「うん」
「でも、その電車が人身で止まったんだよな?」
「うん」
一体どういうことだ……と明らかに困惑してみせる西沢。その背後を坊主頭が通り過ぎていくのが見えた。
「あ、山添」
思わず声を掛けたが、山添は俺の声に応えることなく角を曲がって、階段を登っていってしまう。
「は? おい、栗田!」
呼び止める声を振り切って、山添の後を追いかけた。
角を曲がった先の階段には山添の姿はなかったが、この先にいるだろうと確信して階段を駆け上がる。
そして、俺とは歩くリズムが違う誰かの足音が反響していることに気付いて足を早めた。
階段を上り切った先は、3年生の教室と美術室と家庭科室がある。山添の姿は見えなくても、行き先は一つしかないと思った。
ひと月のうち、多くて4回ぐらいしか訪れることのない家庭科室に足を踏み入れる。
きょろきょろと辺りを見回してみると、案の定あの広い背中と坊主頭がいた。
「やっぱりいた」
山添は振り返って俺のことをを捉えると、顔を綻ばせた。
「先輩、おはようございます」
「おはよう、っていうか朝から何やってんの」
「えーっと……朝練?」
「帰宅部に朝練ないだろ」
「先輩こそ、何で朝から家庭科室にいるんですか」
「それは、お前のこと追いかけてきたから」
「俺に何か用ですか?」
「用っていうか、その……変な噂聞いたから、確かめようと思って」
「変な噂?」
「昨日、俺と一緒に電車乗ったよな?」
「乗ってました」
「人身事故があって、しばらく止まってたよな?」
「はい」
「だよなぁ!」
安堵のあまり脱力した俺は、机の上に突っ伏した。
「やっぱ山添って1年に2人いるんじゃん」
「いや、1年の山添は俺だけですよ」
「……は?」
「1年っていうか、全学年の中で山添は俺だけです。多分」
山添は、さらりとそう言ってのけた。
「でも、柔道部の山添って」
「それは俺のことですね」
「帰宅部じゃん」
「先週退部届出したんで、今は帰宅部」
会話の雲行きが怪しい。
西沢の話が真実なら、山添はあの電車に飛び込んで死んだことになる。
しかし、俺は電車の中で山添と会話をしている。
あれは妄想でも幻想でもない。あんなリアルな幻想があってたまるか。
山添が死んでいるなんて、絶対に有り得ない。だって今も、こうして面と向かって話してるのに。
「お前……い、生きてるよな?」
声が震えて上擦る。
今、普通に会話しているし、体は透けてない。足元は、大きな机があって見えないけど。
本来なら落ちているはずの体の影も見えないけど。
「あ……それ、聞いちゃいます?」
どことなく言いにくそうな表情から、問いの答えを受け取ってしまった。
しかも大きな机の影に隠れていた足が、机の脚をぬるっとすり抜けているところも見えた。
「あー分かった。いい、いい。言わなくて」
「すいません……なんか気を遣わせちゃって」
「じゃあ、昨日は何がどうなってたんだ?」
「何が起こったかは俺もよく分かんないんすけど、体がぶつかった瞬間に意識が吹っ飛んで電車の中に入って」
「うわっ、なんか怖」
「で、真っ暗だし閉じ込められたと思って焦って、手当り次第に色んな人に話し掛けたんですけど全員フル無視で」
「……それで、俺まで辿り着いたってこと」
「はい」
「なるほど」
「あの、先輩って元々見える人なんですか?」
山添の言う通り、俺は「見える人」だ。
所謂、オーラとか幽霊とか念とかエネルギーとかの一般的には見えないものがしっかりと見えてしまう。
見える人の中には、見えない人たちから霊能力者だなんだと持て囃され、テレビに出たりするような人もいるが、俺にはよく分からない。
大多数の人が見えないものというのは、見えなくてもいいものであり、見えてはいけないものでもある。
見えたからといって、何か役に立つわけでもないし、普通に生活してるだけで見えない人の何倍も疲れるし、今まで良いことなんてひとつもなかった。
「まぁ……そんな感じ」
「あ、ついでにお願いがあるんですけど」
「お願い?」
「この机の裏に途中の編み物があるんで、回収してくれませんか」
「は? 途中の編み物って何」
山添に手招きされるがまま、大きな机の反対側へと回り込むと、そこには白くて細かい編み物があった。
「何だこれ」
「レース編みです」
「レースって編むもんなの?」
「俺、たまに部活の練習サボってここで編んでたんですよ」
「これ、お前が?」
「はい」
「えぇ……何なの、マジで……」
見事な円形に編まれた細かいレースに、正直ちょっと引いた。こんなのちょっと教わったくらいでは到底作れない。どれほどの時間をかけて作られたのだろう。
「誰かいるの?」
「えっ」
背後から突然聞こえた声に驚いて、咄嗟に振り返る。
そこには1年生と2年生の家庭科を受け持つ村瀬先生がいた。
「栗田くん?」
「あー先生……すいません、ちょっと前の授業の時に忘れ物して」
「忘れ物って、先週の授業の?」
「お気に入りのボールペンが見つからなくて」
「そう……見つかった?」
「はい! ちょうどさっきここで見つけました」
「そんなところに?」
「いやー、普通に探してても見つからないわけですね! よかった」
へらへらと適当な言い訳を並べながら、編み物をポケットの中に押し込む。
「そろそろ授業始まるんで、失礼しまーす」
村瀬先生に向かってぺこぺこ必要以上に頭を下げ、足早に家庭科室を出た。
廊下を行き交う3年生の合間を縫うように歩いていると、右上に気配がして目線をちらりと寄越す。
「それ、あんまりうまく編めなかったんで捨てちゃっていいですよ」
「はあ? 捨てられるわけないだろ」
「それじゃあ……ばあちゃんに届けてもらってもいいですか」
「届けるってさぁ、俺がこれ持ってんの変じゃない?」
「大丈夫ですよ。さっきみたいにうまく誤魔化せば」
「なんかやだなぁ」
「それなら全然捨ててもらって」
「だから捨てられないって」
「じゃあどうするんですか」
「だって、今悲しんでるお前の家族に嘘つくのは嫌だろ」
「先輩って優しいんですね」
「なんか意外……みたいな言い方すんのやめろ」
斜め上に向かって睨みながらそう言うと、誰かに肩をぽんと叩かれた。
山添とは逆の方向を振り返ると、非常勤の加賀先生が立っていた。
「君、さっきから大きな独りごと言ってるけど、何やってるの?」
「えっ……俺、独りごと言ってましたか」
「この辺見ながら喋ってたじゃない」
「すいません、無意識で」
パーマが強い髪の毛の合間から丸眼鏡がきらりと光る。そして全て見透かすような鋭い目線を向けられた。
絵に描いたような苦笑いを浮かべる俺に、怪訝な顔をした加賀先生が山添のいる方向を見た。
あーあ。お前、今めちゃくちゃ見られてるぞと心の中で思いながら、加賀先生を見つめた。
すると予鈴が鳴り、廊下にいた生徒たちはぞろぞろ教室に吸い込まれていく。
「あ、俺も教室戻ります」
戸惑う加賀先生の煮え切らない返事を聞いて、素早く階段を駆け降りる。
山添は、ちらちらと背後を気にしながら2段飛ばしで階段を降りていた。
「俺、あの先生とすげー目あっちゃいました。見えてたのかな」
「え? 見えてたパターン?」
「分かんないっす」
「でもお前のこと見えてたら、独りごとって言わないだろ」
「確かに」
2階に降り立ち、生徒がいない廊下を駆け足で進む。
「とりあえず、どうにかしてみる」
「え?」
「これ以外も、何かやり残してたことあったら言えよ」
「いいんですか?」
「だって俺、どうせめっちゃ暇だし」
横を走っていた山添は明るい表情になり、後ろへ姿を引っ込めた。
その姿を追って振り返ると、すぐ後ろには担任の葉山先生が迫ってきている。
「うわ」
先生よりも遅れて教室に入ると遅刻扱いになってしまう規則だが、これ以上進むスピードは上げられない。
朝なうえに体力のない俺は、もう遅刻でもいいかと諦めたその時。何者かに背中を押されるように、ぐんと足を進めるスピードが上がった。
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