Etteilla 1. カプチン会修道士(LE CAPUCIN)
どうも。のっけからこのような”禍々しい”カードでスタートしたくなかったのだが、ここのところメッセージのように、じぶんではなく他者のリーディングでもこのカードが出るので「そうか、ここからスタートしなければならないのだな」と感じている。なぜならカプチン修道士のカードの持つ意味は「裏切り」「間違った信心」そして今日初めて知ったのだが、
このBOOK OF THOTH(ブックオブトート)の箱書きの和訳を担当したMr”開かない眼”によるとこの18番のカードは「ユダ」を現しているからだ。Mrの但し書によると「人をしばしば裏切る、しかし常に後悔を抱いている」とある。つまり重要なのは誰が「ユダ」なのか。ということなのだ。
つまり「裏切る」という言葉が「忠誠を誓った神に逆らう」というであるという意味であるとするなら長い歴史の中に例えばユダがいて、ユダが裏切った神があったとして、それは本当に神か、という問題です。その神こそ実はユダであって、誰かを裏切り貶め歴史を歪め、そして「神」を名乗っているのではないか。
学ぶというのは実に興味深い作業で、つまり時折、知らぬ間に壁を越えているようなことがある。アラビアにひと月仕事で行った時、アラビア語はとても難解で、なので使われる言葉は英語だった。わたしはそれなりに英語を話すが、歴史や芸術や宗教など専門的な話を日々英語でされてはお手上げである。でもそれがアラビアでの日々だった。そして重要なのは「言葉がわかる」ことではなく「その先」であった。拙い言葉で懸命に「その先」を追いかけているうちに、ある日カフェで「お飲み物は何になさいますか」という日本語が聞こえた。実はそれは日本語ではなく英語だった。初めてその時英語が耳からそのままドスンと入った。一瞬でも頭で変換しなくてよくなった。日常会話が、いつの間にか全く段差のない言葉として入ってくるようになっていた。「これ持って帰る?」「いいや今日は疲れてるし、ホテルに帰ってもでも食べずにそのまま捨ててしまいそう」そんな具合に。
前置きが長くなったのだがわたしが言いたいのは、Mr”開かない眼”と彼が書いた”エッティラ箱書き”のことである。
LE CAPUCIN(カプチン修道士)
TRAITRE(正位置)/ 裏切り
FAUX DEVOT(逆位置)/ 間違った信心
わたしが改めて”幻の”エジプシャンタロットである「エッティラ」に取り組みたいと思ったのはこの5月のことで、以前も述べたようにそのタイミングでエッティラ師匠との出会いがあり、わたしはこのデッキを実際に扱うことができるようになったのだけど、実はその前にMr”開かない眼”のサイトは見つけていた。だけどそこに書いてあることが全くさっぱり読めなかったし理解できなかった。わからなすぎてコンタクトも取らなかった。
結果その時の選択は正しくて、わたしはエッティラ師匠に出会うことができた。もはやカードの解釈を教えてくれたとかそういうありがたいことを抜きにして、不思議な出会い、かつ重要な存在である。師匠のおかげで大アルカナと言われる22枚の説明がわたしの中でついたのでいろんなことがその時、腑に落ちた。その時も、数時間はかけたとはいえ、その時間の中でこのカードを解することができるほどに、この数年で自分は神秘に近づいていたのだなあと嬉しく思ったのだが、
今日たまたま”開かない眼” を開いてわたしは改めてびっくりした。
言ってることが普通にわかる。何を言っているのか理解できる。
「へのへのもへじ」のように見えていた”コトバタチ”が、意味を伴う言語としてわたしの前に現れた。
それは本当に偶然の出来事だった。知人に頼まれた鑑定が遠隔で自宅で行うものだったので、師匠の資料があれば小アルカナも扱えるだろうと思い、わたしはブックマークしていた師匠のリンクに飛んだ、つもりだった。
ところが繋がったのは”開かない眼”だったのである。そこに書かれていることを読んで、何だかよくわからないけど理解できるじぶんが奇妙だったし(よく映画などで”なぜかラテン語の書物が読める”みたくなって主人公が戸惑うシーンがあるけどまさにあの感じ)、小アルカナというものに対しても、どこか体得しているのを感じた。この人は解釈をしているだけでなく製作にたずさわっているのだということにも今日気づいた。そこに奇妙な「繋がり」を感じて今日の投稿にいたる。
わたしはここしばらくタロットの勉強をしていなかった。でも勉強をしていなかったわけではない。勉強をしていた、世界の歴史についてである。学校で習う歴史ではなく”本当の”歴史についてである。そのこととエジプシャンタロットは繋がっている、だから意味を理解した。だからMr”開かない眼”が翻訳を終えたのは2003年の8月8日となっている。この日に彼ーーもしかしたら彼女かもーーは1つのゲートを開いている。日本人に向かって橋を渡したのだ、8.8に。このあたりの踏み込んだ部分はわたしが他で書いている「シュメールの突先」と関係してくる部分で、いきなりここに書いてもわかりにくいのはわかっているのだが、すなわちそれは、エッティラにおけるエジプト由来が間違ってはいなくて、エッティラは「カバラ」を元に作られているのだから、それは古代文明のさらに昔に歴史を遡り、まだわたしの中で証拠を見つけられてはいないが「エメラルドタブレット」と絶対に結びつく、ということである。だからエッティラでは78番最後のカードが錬金術師となっている。そして”開かない眼”は8.8に「第七十八番:錬金術師を翻訳し終えた」と書いている。錬金術師のカードに「狂気」という解釈がついているのは錬金術は時にそれを目の当たりにした者に狂気をもたらすという意味だろう。
じゃあこの「カプチン修道士」は? カプチン修道士というのはGrand Ettiella Ⅲから加筆されており、ライダー版では「隠者(いんじゃ)」と呼応する。ライダー版の意味は、姥捨山に捨てられたがその叡智の灯を手に生還する者であり、師匠の本には「霊的な高みに達した先導者」と書かれている。
(Grand Ettiella Ⅰ より)
当然、Consaltant(相談者)を視るためにわたしはデッキを使うので、リーディングには正しい解釈が必要、わたしは「隠者」と同じように見える「カプチン修道士」が出た時に「どんな風に解釈したらよいか」だけが最初は気になっていた。けれど今「歴史」という角度からこのカードを見た場合、これはもしかしたら「同一人物」ではないか。
その叡智とそのジャッジ、または審判が時に逆サイドの者たちを怯えさせ、敵または裏切りとみなした。なんていうのかな、この「隠者」はカプチン会修道士を現している、だとしたら裏切りものだろう、そういったところで、本来その人物がなぜ「隠者」となったのか本当の理由は深堀りされないまま、表立ったデッキの意味合いだけが時や世相によって変化していく。
でもおおもとの答えは?
真実はきっと「鳥と魚」が知っている。
というわけでカードは「LES OISEAUX ET LES POISSONS(鳥と魚)」に続きます。支持と保護。そして蛇。
La La La ETTIELLA!!!
<2018.11.28 追記>
やはり”修道院”や”教会”というものはある信仰がパワー(力、権力)と結託した状態でもあると考える。つまりユダという個人単位で考えてみても「誰から見てユダなのか」という問いが生じる。その問い自体がやはり派閥や、多数派少数派という、ある種の塊に対してという感じも彷彿させるし、
そこを考えて行くと、このカードは組織やヒエラルキーというものとやはり強く結びついている。誰がユダなのか。裏切りものと糾弾する方が実はあっさりと寝返ったりするのだとしたら。Be Smart.
どの角度から見ても抜かりなく賢くあれ、したたかにならずに。
嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ