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VOL.2/半径3メートルの暮らしを愛でる(By my beautiful friends)

こんにちは。今日はわたしが昨夜ひどく感心した友人の言葉について語ろうと思っていましたら、昨日の投稿にコメントをくださった方の言葉に「大切に持っていられる少しのものを選りすぐる」という表現があって、これまた今日の投稿を予知していたかのような、笑、シンクロを感じております。そもそもコメント頂くことがすごく少ないマガジンですのでなんか物事がつながっているなあなんて思いつつ、半径3メートルの暮らしを愛でる。

実はわたしの友人には「美人」が多いです。それも「すくすく美人」というかあまりねじれたコンプレックスを持っているタイプではない人。
なんでなんだろうと考えてみたことはないですが、考えてみるとわたし自身が昔から破綻したところがあって、その破綻の仕方が天真爛漫な破綻であるがゆえに「思うところある」タイプの女性には「それ嫌味?」とか思われたり、裏に裏にとられたり、時にひどいやっかみを受けたりすることがあるのです。やっかみというのはわたしの小説家という肩書きとかいうより、
(どうしてそんななのにふてぶてしく鈍感に生きられるわけ!?)
っていうものだと思います。笑。

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実はわたし100周回って鈍感に見えるだけですごくセンシティヴなタイプなんですが、もうつまりそこから行き違ってしまうのでそういう人と付き合うのがしんどい。すると自分が自然体でいて、相手がそれをそのまま受け取ってくれる人って、そもそもがとても綺麗で、かといっていろんなことを察しる力があって、すると綺麗で気立てがいいわけだからずっとみんなに愛されてきた人なわけで、笑、なんかそういう綺麗なまま、当然いろんな苦難はあれどそれをさして苦難とも思わずタフに生きてきた人が、わたしと友達になってくれると、まあこういうことなんだろうなと思います。
(えっと美人って顔の造形だけを言ってません。なんかすごく色っぽい人とか、なんか男の人をメロメロにする人とかなんかすっごくセンスあるとか美人じゃないのに華があるとか、それをちょうどに受け止めててらいなく生きている人たちのことです。共通しているのは卑屈さのなさでしょうか。ここで名前を出して語弊あったら申し訳ないのですが安藤サクラさんのあの天真爛漫さとかはまさにわたしが言いたい美人です。)

本日なぜこんな風に美人について話したかというと、昨日そんな美人の友人と1年ぶりに会いました。(彼女はまず見た目もとても綺麗)
実はその前は10年ほども会っていなかったのですが、1年前に会った時にまるで10年も会ってなかったとは思えないような感じの再会でした。こういう風にどこか飄々として群れないというのもわたしの思う美人たちの共通点かなと思います。きっと幼少期から大人になる時に「あなたはどうせ美人だから(わからないでしょ)」というような不本意な区別を勝手にされたり、勝手にやっかまれたりして、
(うん、とりあえず理解してもらおうとか思わないで、まずは一人で立てるようにしておこうか)みたいに、芯が強くなった人が多い気がします。
なのでそのタイプの美人は、人との距離の取り方がうまく、
トラブルに巻き込まれることがあまりありません。

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対してわたしは、結構エモーショナルなタイプの人間だから、自分を陥れようとしている人に、気づいているのに「でも、どこかに人間らしさがあるかも」とか「いいところもあるかも」とか思ってしまったり、どうでもいい相手にも嘘がつけなかったりして、知らぬ間にトラブルの真ん中にいてしまう、というようなことが、過去、ままありました。

昨夜、彼女と久しぶりに会って、ご飯を食べて、いろんな話の終わり、別れ際にわたしが言ったことは「わたしは今年稼ごうと思う」という話でした。わたしは最近一般的にも知られているホストのRolandさんのことを引き合いに出しました。彼が次に出す本を全部チャリティに回すという話です。わたしはこのラララ世界もそうですが、なるべく自分が得た智慧や情報はみんなとシェアして、世の中は変えられなくとも、みんなを少し生きやすくすることはできまいかと思っている。けれどここ数年というのは目の前の人を救うというか変なお人好しというか「いくらしか出せない」と言われたらいいよいいよと言って、すべてに対して少しづつ少ない原稿料で引き受けたり、ここでもっと請求すると、目の前のこの人の取り分が減るのかなとか考えてしまったりして、いつも半歩ずつ引いてしまって、それがチリツモで生活がどんどん苦しくなってしまった。それでよく考えたら自分がやりたいと思っているチャリティどころか、妹や大事な後輩にもご飯をおごってやれない、家族の誕生日にも奮発してやれない、ってなっていて、大事なものが逆におそろかになっていく、そういう意味ではRolandさんのまず「じぶんを豊かに」「そしてみんなを豊かに」ってすごい正しい順番だと思う、とかそういう話をしました。

その時に彼女が「そっか、あなたはできればたくさんの人を幸せにしたいと思っているんだね」と、とても優しく肯定的に言った後で、
「わたしはね、もう昔から自分の半径3メートルの人たちしか幸せにしないって決めてるの」と言いました。

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(⤴︎その子と食べたもつ鍋)

なるほどすごい覚悟だ!と思いました。
同時にだから強いのだと。だからブレないのだと。

大切にするもの、守るものが決まっている人って強いです。
大切にするもの、守るものが決まっている人って、あまり悩まない。

そして実は、大切にするもの、守るものが決まっている人って、
他者を傷つけないんですよね。
わたしの母もそういうタイプなんですが、彼女はずっと働いてきましたが、
プライベートは絶対的に家族優先で、その姿勢を一度も崩したことがないから、例えば飲み会があっても「その日娘が東京から帰ってくるの」と母が一言いえばみんな、そうだねそういう人だものって納得する。
でもわたし(かつてのわたしとしようか、決別したから)のように、なんとか都合つけようとする、なんとか応えようとする人間だと、相手も「いつもは来るのに来ない」みたいになっちゃう。
そうやって自分がすり減っていっちゃう。

ここでまた頂いたコメントの「大切に持っていられる少しのものを選りすぐる」というところに帰ってくるのですが、やっぱりそのためにも、
自分にとって大切なものをはっきりさせないといけないんですよね。

こんなの、息を吸うようにできる人からしたら「あたりまえやん何言ってんの」ってなるんだけど、それができない人からすると目からウロコ、だったりします。笑。

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例えばわたしは本業は作家だし、そんなこと銀座のママもわかっていたけど、わたしなりにあまりに一生懸命お店のことを頑張って、それででももうこの頑張りじゃ本業が立ち行かないごめんなさいって辞めたわけだけど、わたしが本当に頑張っていた分、ぽん、と抜けたら穴も大きいし、しなくていいはずの寂しい想いとかをママにさせてしまった。
こういうことって不器用さんにはよくあることだと思うのです。このケースはママがいい方だったので気持ちよく送り出してもらったけれど、変なのに当たって「裏切りモノ!」とか言われるケースもあるだろうし、ある映画の仕事では勇気を出して公開前に「あのギャラは少なすぎないか?」と言ったところ、わたしのギャラがそんな金額だったと上の方が全く知らず、中に入っていた人が抜いていたこともありました。

だからやっぱり、半径3メートルの暮らしを愛でる。
ひいては、半径3メートルの中に入れるものを決める。
その輪郭がはっきりしていれば、すべての枝葉の選択や決断が変わってくるんだと思うのです。

わたしはよく変な家の夢をみます。それはどんな家でも部屋でも展開は同じで、起きて居間に降りて行ったらそこがカフェになっていてじぶんの家なのに他人がお茶を飲んでいるとか、じぶんの家とデパートみたいなのが連絡通路みたくドッキングしていたり、こう、家が密封されていない夢なんです。エッシャーみたいなんだけど、室内のはずなのに家をぐるりと回ると廊下のはずが公園になっていたりする、そんな夢です。ドアはあるけど外国のトイレみたいに上がスカスカとか、寝室なのにドアがないとか。
これはきっとわたしが半径3メートルの心のスペースに他者と言える人をずかずか入れている、そのことによってセキュア(安心)がなくなっていて、それに対する潜在的な恐怖だったんじゃないかと、今ふと思いました。

みんなはどうですか?
半径3メートルの中に何を入れるのだろう?
それを考えたときわたしは金持ちになろうと思いました。
まず3メートルの中の人たちを豊かにできる金持ちに。
例えば大好きなベスフレ(姪)が留学とかしたいと言った時に(まだ4歳なのですげえ先の話だけど)ぽん、と費用を出してあげられるようなそんな金持ちに。もっとこのラララ世界に時間を割けるような、そんな金持ちに。笑。そのためには「セツアンの善人(ブレヒト)」じゃないけどシビアなお面もつけていく。ポッペンバッザーグ女王他、女王たちはいつも繰り返し一つの大切なことを教えてくれています「いかなる時も誇り高くあれ」

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それでは、ラララ世界で会いましょう☆

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ラララ・ラム(あるいはマダム・ララ)
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