VOL.19/Go viral,not bacterial [誰かの細胞の中で繁殖せよ](By TITIANことティツィアーノ・ヴェチェッリオ)
こんにちは。
Go viral,not bacterial [誰かの細胞の中で繁殖せよ]
わたくし事ですが多分、明日、退院できます。
(すいませんこれ昨日の夜から書いていた)
多分今日少しプライベートな記事になるので、興味がない方はスルーしてくださいませ。叡智を与える、と言うところまでいかないかもしれません。
病院最後の夜である可能性の高い今宵、漠然とわたしはこの14日間に起こったことを反芻して考えていました。
対外的にはただーー”ただ”ってこともないがーー「肺炎になって入院している」だけなのですが、実は内内では ”山の動く日きたる" 的な、
人生の節目となる出来事が同時多発的に起こった、激動の2週間でした。
2019年の頭に長くしてきた仕事を辞めることとなりそれはある意味人生の大激変だったわけですが、端的に言うとそれ以上のことが起きた。ほんの半年前までたいして変わらない日々をもう3年ほども続けているなあと思っていたのに、いま毎月が激変の時。
(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ「バッカスとアリアドネ」)
この病院とわたしは本当に相性がよく、夏もそうでしたが、ここにいると心がすくわれます。それでここにいる間ずっと思っていたことーこの言葉を使うのは実は少し怖いのですが、やっぱり今日「この場所はわたしのシェルターだったのだな」と思いました。
なんとなくやわん、と「突先.13」には書いたのですが(ごめんこれ有料記事です)ある出来事があって、わたしはスピリ的角度から言うと、要するに被爆しました。極めてスピリチュアルな被爆です。
安易にこの言葉を使ってたとえているのではなく、ある意味、命の際を、彷徨いました。医学的には問題なかったですが入院して2,3日、わたしはそんな状態でした。
なぜそれを強く感じたかと言うと、おばあちゃんやおじいちゃんが亡くなるとき、そんな感じだったからです。つまり、ここにいてここにいないものと対話をしている。当然高熱がある時ってうなされてそうなんだけど、熱もないのにうなされている。小人みたいな声が聞こえる。
それは多分今から思えば低カリウム症というやつと、肺炎を抑えるための抗生剤の副作用による”朦朧-もうろう-”なのですが、誰かが耳元でいつも喋っていて、本当にうるさかった。わたしがそそくさ病院のルーティーンに体を合わせて早寝早起きするようになったのは実はそれがあったんです。
ここで深夜まで起きてたらマズイ。良くない。そう思ったからです。
思わずイスラエル師匠にメールをしました。「わたしの目の前には三途の河があるかもしれません」イスラエル師匠からの返事「どうかその河だけは渡らないでください」
その頃塀の外はーーわたしからするとまさにそんな感じーー世間でもいろんな事件が起きて騒がしく、大型台風がゆっくり通り過ぎているようなそんな感じでしたが、わたしの暮らすこの古い建物の中には”静寂”だけがありました。
作家名でやってるFbにこの写真を載せたら知り合いのCMプロデューサーから「肺炎になって死んじゃった!?」とシュールなコメント。
あまにに何かを射抜いていてびっくりする。
そうだねわたし、いま、一度死んでいる状態なのかもしれない。
それでもこの建物の中で、わたしは少しづつ息を吹き返した。
この建物はそんなわたしの風を避け豪雨をしのぎ、わたしを囲ってくれていた、さながら温かい鳥の巣のように。ここでは時空がすこし変な感じで、わたしは時折じぶんが東京にいるのか滋賀にいるのかわからなくなった。
仲間たちは皆、滋賀で入院していると思っているらしかった。物理的にはあまりも慌ただしい日々の中東京に戻ってスコンと入院したからまだ滋賀にいるような気がしているだけかもしれないけれど、そういった意味でもわたしは行方を眩ますことができている。なんなんだろうなぁ、不思議。
いよいよわたしはここが「不思議シェルター」であるという確信を強めた。
ダヴィンチ・コードやなんかでも重要な場所は目立たないようにそっとあるのと同じでこの病院もなんてこともない町の病院という気配でーー昨日お見舞いに来た友人が「しょっっぼ!」と笑ってた。だって大学病院じゃないんだもんーー世界にうまく紛れている。
大切な石を滋賀に忘れてて、あの石を滋賀に置いたままになっていることも、じぶんが東京にいるのに東京不在な気分になっていることと関係があるらしかった。先週の金曜日、大叔母のipad(フリーズしてしまったipadの修理依頼)と一緒に母が石を送ってくれたため、どことなくようやく一心となって東京を生きているような気がしてくる。
先の入院の時ももちろん今回もわたしはカード一式(エッティラ、潜在意識波動、それからArt Oracle)を持ってきていたのだけれど、この2週間まるでカードを引くことがなかった。あまりに「なう!」「リアルに!」咀嚼し英断が求められる問題の連続、「ちょっとカードを引いてみて考える」時間の猶予が与えられなかったのであります。
色んなことをもう決めてしまってそれで進めているので、そのことをカードに訊くのも微妙、そんなわけでわたしは「総じてこの2週間とはなんだったのか」「そしてこれらはどのように展開してゆくだろう」ということをたずねてみることにしました。
いかにも神のご神託!みたいなものではなくPOPなのりしろが欲しかったので妹がロンドンで買ってくれたArt Oracleを引くことにする。
(表紙に登場するなんて草間彌生センセすごいわ・・・ゴッホの隣にいるし。これを見た夜勤の看護士さんが教えてくれる「センセイ家近所でね、昔はよくこの病院にきてたよ」やっぱりここ、ただの町医者じゃないんだわ!笑)
引いたカードは "TITIAN" ティツィアーノ・ヴェチェッリオ。
(1488~1576)盛期ルネサンスで活躍したイタリアの画家。ヴェネチア派でもっとも重要な画家の一人です。
このArt Oracleの文章を書いたひとは誰だろうっってわたしいつも感嘆しているのだけど。短い言葉の中にぎゅっとストレートに重要なモチーフが要約されている。その言葉の使いかたはウイットに富んでいてとてもシュール。本当に視点が秀逸。
いつも感嘆していますが今日は特にメッセージが色んなことを暗示しているように思えました。(もちろんカードはいつだって暗示してるし暗示のためのツーツなんだけどさ)
🌀[LIFE] ...Go viral, not bacterial. (細菌ではなくウイルスのように行け)
✏️[Work]...A Flattered client is a repeat client.(喜ばれた顧客が繰返し繰返し顧客となる)
👀[Spiritual]...Your personality can be as colorful your canbvas.(あなたの人間性はあなたのカンバスのように色彩に満ちているかもしれない)
カンバスって白いものなのに「それと同じくらいカラフルかも」っていう言葉を選ぶ、こういうところが凄いなって思うんですこのひとは。でも確かに白いカンバスには何色を置いたって、いいんですよね。自分次第で真っ白のままにもなるし、彩り豊かにもなる。
このGo viral [ ウイルスであれ]も個人的にすごく象徴的。まさに今わたしはウイルスが肺に入って入院しているわけなのだから。
ウイルスと細菌は何が違うのか。調べてみました。
するともっとも重要な違いは「細菌は自分の力で繁殖することができるけれどウイルスは人や動物の細胞の中に入らなければ増えることができない」というところだそうです。
(⤴︎『ウルビーノのヴィーナス』(1538年頃) ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
「細菌は自分の力で繁殖することができるけれどウイルスは人や動物の細胞の中に入らなければ増えることができない」
この言葉は圧巻でした。
見これは自力で繁殖できる細菌の方がよさそうに見えます。けれども芸術家というものは自身でポツポツ作品を”繁殖” させていたって、それに触れてくれる「誰か」がいなければ、限りなくその存在は ”無” に近い。
芸術家が”自称芸術家”で終わらず、芸術家たらしめるためには、誰かの細胞の中に入り込み感染させ「誰かを通して」繁殖していかなければならないのです。Go viral, not bacterial.細菌的でなく、ウイルス的であれ。
それからこのカードに描かれた、ティツィアーノの代表作「バッカスとアリアドネ」この作品にもわたしには感ずるメッセージがありました。
なぜかというとアリアドネというのはクレタの王女なんです。
『バッカスとアリアドネ』(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)
この作品は古代ローマ時代の詩人カトゥルスとオウィディウスの詩文をもとにしている。神話によると、クレタの王女アリアドネはミノタウロスへの犠牲としてクレタに連れて来られたアテナイの王子テセウスに恋をする。アリアドネはテセウスの怪物退治を助け、ともにクレタを脱出するが、テセウスはアリアドネを見捨て、ナクソス島に置き去りにしてしまう。アリアドネは嘆くが、そこに2頭のヒョウが牽く戦車に乗ったバッカスが現れて、アリアドネを妻とし、アリアドネの宝冠を取って空に投げるとそれはかんむり座になった。
クノッソス!!!
2016年に訪れたこの宮殿こそ「アリアドネの糸」で有名なかのミノタウロスの物語の舞台となった迷宮である。当然だがクノッソス宮殿はクレタ島にあって、わたしはクレタ島に4日間滞在した。そしてミノタウロスをあしらったネックレスを、そこから半年間ほど、毎日身につけていたのである。それはさながらミノタウロス、テセウスと、盲目的かつ実りのない恋をくり返したアリアドネのように。
思えばここ数日、なぜか日々、このラララに、ギリシャの写真を写真を使って来た。クレタ島を中心とするギリシャの写真。それは何かの再燃のような感じで、ラララ(このnote)を始めた頃はよくギリシャの写真を使っていたけど、ここに来てまた急に、書く記事にそれが合うと思うのも不思議だなあと思っていた。
加えて「クノッソス」にはわたしは今でも疑問が残っていて、わたしはあれを”宮殿”だとは思わなかったのである。以前モンサンミッシェルのお墓に行った時、じぶんにはそこはレストランだったということがあった。
(必要にかられましたので作家名の方のリンク貼ってます。この頃ラララがなかったからこういう不思議エピソードはこのような形でふわっと残していましたの)
クノッソスは、昔訪れたローマのコロッセオに似ていた。そしてコロッセオは「収容所」なのである。わたしはクノッソスから「収容所感」が拭えず、いろいろ調べて「クノッソスは宮殿ではなく霊廟である」という説を見つけた。
2019年現在、今でも答えはわからない。
けれども悲しい物語だけが結末となっていたこのクノッソスの物語に、
「2頭のヒョウが牽く戦車に乗ったバッカスが現れて、アリアドネを妻とし、アリアドネの宝冠を取って空に投げた」という、信じられない続きがあることを知った。バッカスはなぜ王冠を空に投げたのかな。なんとなくそれはこれまでの過去におけるアリアドネの哀しみの象徴のようにも見えて、それを空に投げたというのはこれまでとのチューンとの決別と、これまでとは全く違う、新たな人生の始まりを意味するように思う。
そして「バッカス」というのは酒の神なのである。
酒の神とわたしというのはもう切っても切れない関係なのですが、具体的なことはもう少しいろんなことが形になってから書きますね、今胎動の時。
そしてこれは超こじつけでしかないネタなんですが、わたしは20歳の時に「バッコスの信女」というギリシャ劇に、コロス(アンサンブル。信女のひとり)として出演したことがあるのです。
それは演劇学科の学内公演だったのですがロンドンの王立演劇アカデミーから有名な演出家が来て演出をしてくれましたので、劇場は学内の大講堂で、たくさんのお客さんがいらっしゃっていた。けれどその時の演出が「第4の壁を強く意識するもの」ーーつまり世界に入りきってじぶんと観客の間に第4の壁を作る。物語の世界の中にはお客さんはいないからーーだったのでお客さんのことをほとんど覚えていない。
もしかしてあの時にわたし、バッカスに入信しちゃってたのかしら?笑
信女だし。笑。
(⤴︎クノッソス入り口のカフェ)
ともかく、昨日”ティツィアーノ・ヴェチェッリオ”を引いたということは、以上の理由から、ポーカーでいうと”ロイヤルストレートフラッシュ”を引き当てたような感じがしているってことなんです。笑。
奇しくも昨日、すごく仲のいい役者の友人が「幽閉されている」わたしをお見舞いに来てくれました。幽閉されている、というのは、彼が作った芝居の演目に「結婚できない女」というのがあって、それは40歳を超えて結婚できなかったら幽閉される世界の話をコミカルに描いたものだったのだけど、わたしが40歳の誕生日を迎えて程なくして入院したものなので、
「もしかして幽閉されてない!?」って連絡が来て、
わたしも「いや、普通に入院してるつもりだけど!」って返してから、
「え? でも、もしかしてココって・・・?(結婚できない女の収容所だったりして)」 ♩世にも奇妙な物語のテーマが流れる感じ。笑
・・・って返信して、ふたりで爆笑してて、その流れで彼は「幽閉ぐあい」を見に来てくれたのだけど。
もしかしたらもうすぐ、2頭のヒョウが牽く戦車に乗ったバッカスが現れて、わたしを妻にしてくれるのかも。笑。
もうすぐ、ではなく「すでにそう」なのかもしれないよ。
だってわたしは20歳の時からすでに、バッカスの信女なのだから。笑。
今日ちょっと長くなりました✨
お付き合いいただいたみなさまありがとう。空に新しい星座を見つけたら、それはわたしの哀しみが王冠の形の星になったもの。
微笑みを送ってくれたら嬉しいな。笑。
それではららら。
わたしは今日、バッカスとともにシェルターを出ます。
ラララ世界で会いましょう☆