魔王のキッチンで健康料理❶
あらすじ
OLとして働いていた菜々美は、ある日突然異世界に召喚される。新しい世界で彼女が気づくと、そこは魔王の城の厨房だった。魔王ヴァルガスは、強大な魔力を持ち非常に恐れられていたが、実は優しい心の持ち主だった。菜々美はなぜか使えるスマホアプリ「デ◯ッシュキッチン」を駆使して、健康的で美味しい料理を作り始める。そして魔王の困った5人の子供たちも、はじめは菜々美に対して冷ややかな反応だったが、徐々に菜々美に心を許すようになる。しかし魔王城には反逆者の魔の手が忍び寄っていた…
黒銀の毛並みをもつブラックフェンリル、有能な召使妖精のフィービーと共に菜々美は魔王城の住人たちの健康を改善し、陰謀を退けてゆく。
エピソード1: 「新たな始まり」
菜々美の最後の記憶にあるのはLINEの画面。
明日も仕事だから早く寝なくちゃと思いながら、いつものようについつい布団の中でYouTubeを見ていたその時、LINEの「お知らせ」が来た。同僚の結衣から明日のランチの連絡だと思い、菜々美は何も考えずにタップした。
(すぐにLINE返さないと女子ばっかりの職場はめんどくさいからなぁ)
半分寝ぼけながら開いたメッセージにはただ一言。
「オマエだ」
次の瞬間、菜々美の意識は薄れ、気づくと目の前には大きなかまどがあった。
(チャング◯みたい)
かまどを見て菜々美は思った。結衣に影響されて見るようになった外国の時代劇のドラマに出てくる王宮の厨房のような室内。天井は高く、火が消えたそこは寒々としている。
へんな夢…
夢にしては素足に触れる床がとても冷たい。
そしてかまどの向こうに琥珀色に光る一対の目がこちらを凝視していることに気づき、菜々美は凍りついた。菜々美の背丈を超える巨大で獰猛そうな黒いオオカミ。
「ほう、食料がみずから厨房へやってきたか」
オオカミがしゃべったという驚きよりも、喰われるという恐怖で菜々美は踵を翻して逃げ出した。
オオカミの殺気はそこまで恐ろしかった。
真っ暗な廊下。まさにそこはドラマに出てくる王宮のよう。
菜々美を追うオオカミの息遣いがすぐに迫ってくるようで、恐怖で膝が笑いそうになるのを堪えて菜々美は必死で走った。
転んではだめだ。転んだら喰われる。
必死に走って灯りが洩れているドアの中へ飛び込んだ。
「た、助けて」
息があがって言葉になったのかどうか。走りすぎて喉からは血の味がする。そのまま部屋の中にいた人影にすがりついた。
「お、オオカミが…」
菜々美がすがりついたのは、逞しい体躯の男性のシルエットだった。屈強そうな大男。
「オマエを追ってきたものはオオカミではない。あれはブラックフェンリルだ、人間」
彼は震える菜々美の肩を掴むとそう言った。
菜々美が彼を見上げると、そこには菜々美を見つめる深紅の瞳があった。整った顔立ちをしているがとても恐ろしい覇気を感じる。そして頭には捻れたツノが2本。
ダメだ、人間じゃない…
絶望で目の前が真っ暗になる。
しかし彼は言った。
「オマエを喰わないように言ってやろう。」
低い声はやはり恐ろしい覇気をともなっていたが、優しい響きを含んでいた。
「ヴァルガス様、人間を庇護下に置かれますか」
いつの間に部屋へ入って来たのか、黒銀のたてがみを持つ獰猛そうな生き物が控えていた。
「そうだ、フェン。コレは喰ってしまってはいかんぞ。」
そしてもう一人、部屋の中に居た人物へ向かってヴァルガスは言った。
「爺、この娘を召喚したのはオマエか」
爺、と呼ばれた魔族は菜々美と同じくらいの身長だった。枯れ草色の皮膚。ひどく年老いたその魔物はいたずらがばれた子供のようにニヤリと笑って言った。
「お子たちの世話役に良いと思いましてな」
「こんなものを召喚してどうするつもりだ。人間の娘などここへ召喚して喰われてしまっては元も子もなかろう」
ヴァルガスが老いた魔物へ言う口調には少し責めるような響きがあった。
「と、言うわけじゃ、フェン。この娘の世話を頼む。お前がついておれば安心じゃ。」
まさか自分にお鉢が回ってくるとは想像していなかったフェンリルは目を白黒させて抗議した。
「なぜ、我が人間などの世話を焼かねばならぬ。グリモ、さてはハナから我のいる場所に現れるように飛ばしたのだな。この、策士め」
「しかたあるまい。ワシはもう思うように動けんからな。お主が適任じゃ。年長者の言うことは聞くものだ。それに王はその娘を守ってやるおつもりのようだ、いわば王命だ。諦めろ」
王だったのか…
菜々美はヴァルガス様と呼ばれた偉丈夫が魔王だということを知った。
そしてどうやら、自分を喰うなと命じてくれているらしい。逆に言えば、自分がここではフェンリルだけでなく、他の誰かにとっても「ご馳走」になってしまうらしい事が分かった。恐ろしさに気が遠くなりながらも菜々美は、魔王の紅い眼は宝石のように綺麗だなと思った。
「娘、お前の名前はなんという。その、手に持っている魔道具はなんだ?」
ヴァルガスに問われて菜々美は自分の手を見た。スマホを手に眠りに落ちた時のままだった。結衣に返信しようとしたLINEの画面。
「オマエだ」
一言だけ出ているメッセージ画面のアイコンは、よく見ると結衣ではなく小鬼のイラストになっていた。
「オマエの名を王が聞いておる、答えよ、娘」
重ねて魔族の長老に問われた。こちらも歳はとっているが王にも劣らぬ威圧感があった。
圧に屈する形で菜々美は思わず答えた。
「な、菜々美……」
(言っちゃった……名前を知られてしまうと支配されるゲームなかったっけ……。)
ぼんやりとそう思いながら菜々美は緊張のあまり意識が遠のいていくのを感じた。
気づくと菜々美の視界には見知らぬ天井があった。手にはスマホ。着ているのは昨日からのルームウェア。けれどそこは見慣れぬ部屋。菜々美はベッドの上に寝かされていた。
(やっぱり、夢じゃなかったんだ……)
こちらが夢で、目を覚ましたらいつもの菜々美の部屋にいるのではないかという淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
「起きたか、ナナミ。」
菜々美が目を覚ましたのに気づいたブラックフェンリルだった。
フェンは次に「誰か」に声をかけた。
「ナナミが目を覚ました。グリモ様にお知らせしろ」
声にならない声が
「かしこまりました」
と応え風のように吹きすぎて、行った。
菜々美には見えない何かがそこに控えていたらしい。
「これだから人間は、か弱すぎて困る。ヴァルガス様が寝かせてやれと仰るから使い魔たちにここへ運ばせたが、そのまま目を覚まさなかったら我が何かしたと思われるではないか」
どうやら菜々美が目を覚まさないのではないかと心配していたらしい。
眠って起きて気持ちが切り替わったからか、菜々美は昨日ほど恐ろしい気持ちになっていなかった。
昨日から出会った魔物たちが恐ろしい見かけをしている割に、菜々美を害そうとしているわけではないということに気づいたからでもあった。
「お、おはようございます……」
菜々美が答えると、ブラックフェンリルの尻尾がふわりと揺れた。
「グリモ様がお呼びです」
風の囁きが聞こえた。
姿が見えない声の主を探してキョロキョロする菜々美を見てフェンの尻尾が反応した。
「ほう、オマエは、妖精の声が聞こえるようだな。さて行くぞ。付いてこい」
フェンに付いて入って行った大広間には、昨日の魔族の長老グリモ以外に大、中、小
5つの影があった。
「おお、来たなナナミ。姫様、若様がた、これが申しておりましたナナミです」
グリモが言うや否や
「何よ、グリモ、なんで私たちがこんな人間の従者なんかつけなくちゃいけないのよ」
いちばん年長に見える少女が反抗的に言った。大人には騙されないぞ、という気概が満々である。
「そうだ、グリモ。なぜ今人間などを我らにつけようとする?」
姉よりも頭ひとつ大きい若者が言った。こちらは悪意があるというよりは困惑しているようだ。
「わぁ、人間だ。初めて見る」
兄や姉の言うことは全く聞いていなかった男の子が菜々美に近寄ってきた。
「人間の女の人?ナナミっていうの?僕はフィンだよ。」
「は、はじめまして。菜々美です」
つられて菜々美も自己紹介する。
「ナナミ!僕と遊んでくれるんでしょ?」
好奇心で瞳がキラキラしている。綺麗な青い瞳だった。
「ナナミ。こちらが魔王ヴァルガス様のお子たちじゃ。上から順に長女のリリアン様、長男のカイル様、次女のエミル様、次男のフィン様、そして末のルナ様。そなたには皆様の話し相手になってもらう。」
女の子たちはヴァルガスと同じ黒髪に紅い瞳をしていたが、男の子2人は金色の髪に青い瞳だった。皆、ヴァルガスと同じようにねじれたツノが2本。父親に似て整った顔立ちをしている。
「私は反対よ、グリモ。人間の従者なんて。」
紅い瞳をいらだちにきらめかせてリリアンがさらに言う。八重歯…と言うよりは牙に見える歯がキラリと光った。
「いいじゃない、姉様。私はいいわよ。むしろいろいろ『実験』に付き合ってもらいたいわ」
菜々美を解剖しそうな目をして次女のエミルが言った。
「よろしくね、ナナミ」
こちらは紅い瞳が少し暗く暗紫色に見える。クールで知的好奇心の塊、といった印象だったが菜々美は彼女の一言が気になってしかたなかった。
(実験て、なに……?)
明らかに、菜々美「と」実験するのではなく、菜々美「で」実験しようとしている。
菜々美はゾッとして声が出なかった。
「グリモ様、ナナミは妖精の声が聞こえるようだ。」
とりなすように割って入ったフェンを見て、リリアンの後ろに半ば隠れるようにしていた末娘のルナがフェンに近寄ってきた。
どうやらフェンが大好きらしい。フェンを撫でたくて仕方がないという様子だ。フェンもルナには甘い表情をする。
「ほう、それはいいな。召使妖精を菜々美の世話につけてやろう」
グリモは言って杖で床をコツんと叩いた。
そして、
「イタタタ……」
とその場に崩れ落ちる。
「爺、大丈夫?」
リリアンが心配そうに駆け寄る。
「お呼びでしょうか」
風の囁きが耳を掠める。
「お、おお、フィービー。この人間の世話をオマエに頼む。イタタタ」
痛みに耐えながらようやく、と言う様子でグリモは言った。
「まずは、食事と着替えを用意してやってくれ」
「だから無理しちゃダメだって言ったじゃない。もう歳なんだから!召喚なんかしたから熱が出てまた関節が痛むんでしょ。何かあっても知らないわよ」
言葉はキツいがリリアンは本当にグリモのことを心配しているのだな、と菜々美は思った。見た目はキツイが優しい娘だ。
案内された厨房には、すでにテーブルの上に菜々美の朝食が用意されていた。
よくわからない、煮込みのような、スープのようなもの。
でも美味しそうな匂いがしていた。
「一緒に食べる?」
菜々美に興味津々でついてきたフィンを放って1人で食事をするのもどうかと思い菜々美は誘ってみた。
「うん!」
フィンは嬉しそうだ。
「申し訳ございません、こちらのスープにはフィン様が苦手なマンドラゴラを使っています。」
「マンドラ…?」
怪しい響きに引いた菜々美だったが美味しそうな匂いに負けて一口飲んでみた。
「美味しい……」
「恐れ入ります」
フィービーの口調は嬉しそうだ。
「僕も!僕にもちょうだい」
フィンが叫ぶ。
「ですが、フィン様、こちらにはマンドラゴラが……」
「いいんだ、ナナミが美味しいって言った」
それでは、とフィンの前にも煮込みのボールが出された。
「うーん」
一口スープを飲んでみてフィンはまゆを潜めた。
「フィン……様?は苦味のある野菜はお嫌いですか?」
マンドラゴラって野菜なのかな?と内心疑問に思いながら菜々美が聞いた。
「フィンでいいよ」
フィンはまだ眉をひそめている。
反射的に菜々美はスマホを検索する。
「子供でも食べられる美味しいマンドラゴラのスープの食べ方は?」
あっ!ここは魔界だったと思いながらスマホが回答をはじめたので菜々美は2度びっくりする。なぜかWiFiのマークがついている。
「マンドラゴラの根は独特の苦味があります。マンドラゴラの根を薄切りにし、塩水に浸して苦味を取り除くとよい。甘みのあるニンジンやサツマイモを加え、リンゴを少量加えることで、スープにフルーティな甘さを加えます。具材を柔らかく煮た後、ミキサーで滑らかにします。これにより野菜の食感を気にせずに飲めるクリーミーなスープになります。好きな軽いスパイス(例えば、シナモンやナツメグ)を少量加えて味に変化をつけます。細かく刻んだパセリやクルトンをトッピングして、視覚的にも楽しめるようにします。」
スマホの回答を読み上げて、
「でも、ニンジンやサツマイモなんてないよね……」
つぶやいた菜々美に
「それはどのような食材でしょうか?」
「風」の囁きが尋ねた。
フィービーに答えるために、菜々美は半ばヤケクソ気味にスマホアプリ「デ◯ッシュキッチン」を開く。
なんと、「マンドラゴラのスープ」の動画があった。
菜々美の読めない魔界の文字で書かれた食材とレシピ。ニンジンの写真のところも全く読めない。
「この食材ならございますよ」
フィンも興味津々でスマホを覗き込んでいる。
「一緒に作ってみる……?」
「うん!」
楽しそうな予感にフィンが小躍りする。
「フィービー……さん?手伝ってもらえる?」
「フィービーでよろしゅうございます。その魔道具の言う通りに調理すればよろしゅうございますね?」
「できるかしら?」
「もちろんですとも」
「じゃぁ、フィンは、にんじんを切ってもらえる?」
「うん!」
(マンドラゴラってそもそもなんなわけ?野菜っぽく見えるけど……)
菜々美はついでに検索してみた。
>マンドラゴラはナス科の植物。暗黒海沿岸などに自生する。人間の胴体と手足に似た形の根を持ち、引き抜くと悲鳴をあげ、聞いたものは発狂する。根には幻覚、幻聴を起こす神経毒がある。かつては鎮痛剤・麻酔剤などに用いられていた。
(え?鎮痛剤なんだ……っていうか、コレどうやって引っこ抜いたんだろう?)
そのまま関節痛に効くレシピは?と検索してみる。
あった。
レシピ名: マンドラゴラとハーブの治癒スープ
材料
マンドラゴラの根(薄切り) 100g
ニンジン 1本
セロリ 1本
玉ねぎ 1個
ニンニク 2片
生姜 1片
タイム 1小さじ
ローズマリー 1小さじ
ターメリックパウダー 1小さじ
チキンブロス 1リットル
オリーブオイル 大さじ2
塩、コショウ 適量
(やっぱりスープなんだ)
効果
マンドラゴラの根: 鎮痛作用があり、関節痛を和らげる効果が期待できる。
ターメリック: 抗炎症作用があり、関節の腫れや痛みを軽減する。
タイムとローズマリー: 抗酸化作用があり、関節の健康をサポートする
菜々美の検索する手元をフィービーが見つめる。
「そちらのレシピにいたしますか?」
「ええ、お願い。途中でフィン用に小鍋に取り分けて味付けを変えればいいと思うの」
「かしこまりました」
菜々美たちが何かをはじめた気配を感じ取ってフェンが様子を見に来た。フェンはルナと遊んでやっていたらしく、背にルナが乗っていた。
途中でクルトンを作ろうとしたフィンが魔法で火力を暴走させて爆発させてしまったり、スープに合わせるパンを菜々美が星形やハート型にしようとしていたのをフィンがイタズラしてグリモの顔型にしてしまったり、召使妖精のフィービーは大忙しだった。
菜々美とフィンとルナ(も、少しお手伝い)をして作ったスープの大鍋は広間に運ばれた。
関節痛に効くようにという意図を察したフェンがグリモだけでなく高齢の魔族たちを昼食に招いたのだ。
「さっそく何かをはじめたようだの」
「爺!ナナミのスープはすごいんだ。僕、マンドラゴラを食べられるようになったよ!」
さっとフィービー配下の召使妖精たちがテーブルにスープとパン(グリモ型)をサーブする。
グリモのパンを見て長老の1人がクスッと笑い、グリモは憮然とする。
「僕とルナも一緒にスープを作ったんだよ、食べてみて!」
フィンの新しい遊びに付き合わされた格好で広間に現れた長老たちだったが、スープは好評だった。
「美味いな」
「あの、他にもいろいろなメニューが作れそうなのですが。しばらく厨房とフィービーをお借りしてもよろしいでしょうか?」
スマホのレシピに長老たちの健康に良さそうなものをいくつか見つけた菜々美は試してみたくてグリモに言った。
「ああ、構わんとも。王がお主にフィービーをつけることを許されたのじゃからな。」
さりげなくグリモが他の長老たちに菜々美がヴァルガスの庇護下にあることを強調した。
「美味い料理が食べられるのは願ってもないことじゃ。」
「しかも、健康に良いようだ。健康は宝じゃ」
「それよりも、フィン様のイタズラがしばらく止むだけでもありがたいわい」
「そうだ、王妃様がいなくなってからというもの…」
「これ、迂闊なことを口にするな」
長老たちは口々に言った。
この日から菜々美の魔王城での料理人としての生活が始まったのであった。