「オトシゴ」
「ふぁぁぁぁ…………」
日の差し込む暖かい時間。もう起きなきゃ。無意識に布団をかぶりかけるわが身に鞭を打つ。
私の名前は斎藤由里。21歳。現在大学生。今日も今日で授業を受けに行かねばならないと足早に洗面所に向かう。しかし、その途中で、日々の大事な日課を思い出した。
「あっ……ご飯あげなくちゃ………」
「たっちゃん」。私の大切な家族。たっちゃんは私と彼のしがらみ。
数か月前、大学生になって上京してきた時に新居の近くを散歩していたら、ペットショップを見つけ、新しい生活の孤独を埋めようと一目ぼれして即決したタツノオトシゴ。タツノオトシゴをペットとして飼えるのにも正直最初は驚いたが、タツノオトシゴは見れば見るほど愛らしい生物であることにはさらに驚いた。
「おーい。朝だぞー。ご飯だぞー。」
そういって、水槽に餌を注ぎ込む。目の前の愛らしい生物は餌を見るなりそそくさと口を動かして餌をとらえる。小さく必死に食べるのが何ともかわいい。
「きょうもかわいいねぇ。」
しばらくその様子を見ていて、目の前の子がご飯を食べ終わったと思った頃、ふと時計を見ると7時50分。最初の講義までたった40分。所要時間は30分。
いつもの危機が私に迫る。
「あっ…やべっ……自分の食事忘れてたわ……」
朝ご飯を後回しにしながらも、大学を一生懸命目指そうと急いで荷物をまとめて足早に玄関を駆け出す。出発時、玄関から一言。
「いってくるねー」と一言。
高校生時代から封印されてた全力ダッシュを決めて、最寄り駅まで何とか目的の通勤快速に乗り込むに至った。
「あぶねぇっ………」
そこから電車と徒歩で30分。開始4分前に教室に到着し、着席。
家から適当に持ってきた菓子パンをほおばる。
今度は私の番だと菓子パンをほおばっていると、隣に、私の真横には私の悩みの的がやってきた。
「おはよう。由里。」
「…」
私は、食べかけのパンに食いついて聞かないふりをした。
後藤健司。同じ学部で同じサークルの同級生。私の知り合いが一人もこの大学に入らず、寂しくいたところ、話しかけてくれたいいやつだ…と思っていた。
あいつはたっちゃんのことをよく思っておらず、たっちゃんを育てると主張したところ、優しかった彼はどこかへいってしまった。私に会うたびに「たっちゃんを手放せ」としか言わないロボットになった。周りの目を気にしながら私にしか聞こえないような声で言った。
(“アレ”のこと考えていたら気が気じゃなくて寝坊したわ…で結局…お前…どうすんの?
まさか…そんまま育てようってわけじゃねぇだろうな…?)
あの子を捨てろというのか。今までの生活を無碍にしろというのか。私の怒りもこれは見過ごせない。
(せっかくの命を捨てろっていうの?一緒に育てようといったじゃん!)
(無理なことは無理だよ。たかが数か月間の関係だろ?俺との2年間より上だってのか?)
(っ………! 私には選べないよ! あの子も大事だし、健司も大事。)
(ガキみたいなこと言うな。どっちか選べ。どっちも取るなんて無理だ。あいつを取れば俺らの生活は狂う。俺とお前はもう別れることになる。)
(そんな… でも……)
講師が入ってきた。一時休戦だ。さすがに授業中にまでこの話を続けるのは無理がある。
(一旦この話はあとだ。けれど、今日こそ結論を出してもらうぞ。あいつを捨てるか、俺を選ぶか。)
(…)
「それでは授業を始めますよ。そこ。静かに。」
『はい…』
いつもの退屈な必修の講義がなおさら重い。このあと自分の運命の決断をしなければならない。どちらを取るか。どちらを取るべきなのか……
午前二時。今日のすべての講義が終わり、あいつに見つからないようにそそくさと家へ戻ろうとした。最悪、家へ帰っていないふりでもしておけば今日のところはあきらめてもらえるだろう…と思ったが…
「おい。由里。待てよ。」
「ひっ…」
逃げることはお見通しだった。大学の門の近くのベンチにスマホをもって座っていた黒パーカーの男がこっちに来る。
「今日こそ結論出してもらうからな。どっちを取るのか。強い口調になって悪い。だけど、これだけは忘れないでほしい。これはお前を思って言っていることなんだよ。」
飴と鞭で挟まれて縮こまる。話は続く。
「どっちかを決めないと今後の大学生活のキャリアに双方で迷惑がかかる。だろ?」
「うん…それはそうだけど…」
「だから、今日こそこの面倒な問題に決着をつけよう。な?」
「…」
返す言葉がなく立ち尽くす私を連れて、クズは大学から徒歩数分の喫茶店へと入っていった。
「とりあえずコーヒー2つ。お前食いたいもんなんかあるか?」
「ない…」
「ならこれだけで。」
「分かりました。ではコーヒーをお持ちしますので、それまでどうぞごゆっくり。」
地獄のお茶会が始まった。なんとしてこの場を抜け出さなければ…あの子の命が危ない。どうにかしてこの状況を打開しなければ…
「ごめん…ちょっとトイレ行ってくるね。」
「チッ……早く行ってこい。」
一旦、安息の地に逃げ込む。外との隔たりを一瞬消すことが出来た私は安心感に包まれた。
「ふぅ…逃げ出したはいいものの、いったいどうすれば…」
逃げたはいいが、まだ一時的な安息の中にいるだけ。いつ、この包囲網が崩れるかはわからない。
「あっ…そうだ。」
私は、ポケットのスマホをすっとだし、打開策を求め救援信号を送ることにした。
「えっと……えっと……」
トークアプリを開いてもまだ照準は定まらない。
「あっ…」
その瞬間。いた。救世主がそこに。
定まった照準はずらさず、文字列を乱れうち。救われる事だけを願う。
『すまん…例の事件のせいで今喫茶マンソンジュにいるんだけど…』
『うん』
『あいつから詰められてて…今トイレにいるんだけど』
『うん』
『あいつ引き止めといてくれない…?この恩は今度学食おごって返すから…!』
『OK』『ありがと!』即答だった。
私は彼女の支援を待つため、このトイレでひたすらその時を待った。
(早く…早く来てくれぇ…)
その瞬間、扉がドンドンと音を反響させた。
「おい。早く出て来いよ。トイレといえども20分は長すぎるんじゃねえの?」
「ひっ……」
鼓動とドアの音が反響する。恐怖の音が。
ドンドンドンドン………ドンドン………
「お客様!ドアを強くたたくのは周囲の方に迷惑になるのでおやめください!」
そんな騒ぎを聞きつけて店員がやつに駆け寄って
「うっせえ!この中に俺の彼女が閉じこもってんだ!おい由里、早く開けろ!」
ドンドンドンドン………ドンドン………
ドアが揺れる。限界か…私は個室でこの後の最悪の結果を予測し、うずくまった。しかしその折、私の救世主は怪物に奇襲する。
「おい健司、もうやめろ。」
「あ? あっ………」
先ほどまでの勢いを失った怪物は振り返ると、ショートヘアーのすらっとした背の高い女性がいた。彼女は、藤田葵。私のサークル内での姉貴的なキャラで、このサークルの中では逆らえるものはいない…が、私の一番の友達であり、ピンチをいつでも聞きつけて助けてくれる。
「健司。私の大切な友達の由里をどうしていじめてるんだい?」
「ひっ…それは、大切な話し合いの最中にぃ…トイレにこもって逃げ出したからでぇ…いくら仲がいいとはいえぇ…」
ドン!トイレの近くの壁を強くたたいて葵はつづけた。衰退する怪物。勢いを増す葵。
「お前さ。どんなに仲良くしてるからって、トイレまで女の子を追いかけるのはどうなのかなぁ?ちょっとこっちに来い。話すことがたくさんある。」
「はっ…はい………」
姉貴に連行されていった死にかけのアイツをこっそり隙間からのぞき込んでいた私は、彼が動転しているすきを見計らって喫茶店から脱出した。
“サンキュー。マイジャンヌダルク。”
御恩は学食じゃなくて焼肉に変更だ。そう思った私はメッセージアプリで
『姉貴、ありがとうございました!今度焼肉行きましょう!私が出します!』と打ち込みながら駅まで重くなったおなかを抱えすたすたと走っていった。
「はぁ………………」
あの事件から一週間後、私は引きこもりになっていた。
一昨日葵に焼肉をおごったときにも
「私があいつしめとくから、おいでよ」と説得を受けたが、
「私と健司の問題は解決しなければいけないのはよく分かってる。けれど、今はあいつの顔は見たくない。だから、まだ行かない。」
葵は少しウーロン茶を含んでから、ちょっと折を挟み、口を開いた。
「ならさ、話し合いをしておかない?万が一すぐ解決しなくとも、一旦自分の意見をまとめて伝え合う場所は大事だと思うな。」
「確かに…」
「だから、由里も意見をまとめておいてね。あいつは…何とか私が連れてくるから。」
「分かった。」私は決着をつけようと心に決めた。
その数時間後、『話し合いは明日14:00。由里のうちでいい?』と来たので、『OK』とスタンプで返事をした。
14:00を回った。この後あの子のことがすべて決まる。姉貴もいるから暴力で脅されてしぶしぶ…なんてことはない。ここでの私の結論があの子のすべてを決めるんだ。
いうことはまとまっている。あとは決着をつけるのみ。心を決めて座っていると、
トントンとノックの音がしたので玄関に足早に向かうと、強気な葵と弱気になっている健司がたっていた。二人を招き入れ、あらかじめ用意しておいた冷たい水と茶菓子を出して3人とも水を飲み、小休止して葵が口を開く。
「それでは、話を始めよう。お互いに言いたいことはもう決まっているよね?」
「はい。」「ああ。」
私と隣の男は即座に返事をした。
「まず、由里。由里はどう思っているの?」
まず姉貴は私に話を振った。私はあの子を守るため淡々と話し始めた。
「私は、この一件を通じて、健司と別れることにしました。なので、そのためにあの子を…殺します。」
姉貴はうなずいた。「分かった。それが由里の結論だね。」
私も返す。そしてまた葵は話し始める。「じゃあ健司。健司はどう思ってるの?」
健司は少し考えたのち、伏せていた声をようやく表に出す。
「俺は…俺は…由里に賛成だ。今まで由里に迷惑をかけていたんだってようやく気が付いた…俺はもう由里のそばにいるべきじゃない。だから、俺とのしがらみであるアイツを殺すことに僕は賛成だ。」
「ふうん…そうか。二人はあの子を殺すことにするんだね?」
「うん…」「はい…」命を奪うという結論を二人で出したが、私はとにかくもうこの話を終わらせたかった。彼の顔を観たくない。
「分かった。ではこの話の通りにしよう。ただ、おせっかいかもしれないが、由里に同行させてもらうよ。それでいいか?」
『はい』二人の答えは一緒だった。
翌日、私と葵は大病院へ向かった。あの子はここで最後だ。
病院に入って呼出し番号が書かれた紙を持った私は呼び出されるのを待った。
この時、私にとてつもない後悔が襲った。(この子は私が養うといったん決めた子…殺してしまっていいのか…?)(彼との思い出は嫌なものもあったけど…いいものもあった。本当にしがらみを切って幸せなのか…?)そう悩んでいた私を見て葵が優しく語りかけた。
「由里、もうあいつのことは忘れるんだよ。つらくなった時には一緒にいるから…」
「うん……」私は泣いてしまった。そして、この子の処遇を改めて受け入れた。
数分後医者に呼ばれ、検査をしたところ、すぐに手術をしないと危なかったそうだ。
私はそのまま、入院して手術を受けた。もうあの子のことは考えたくなかったので頼み込んで麻酔を打ってもらい、次に目覚めたのは手術後だった。
体が軽くなった。もうあの子のことは考えなくてもいい。そして、健司とのかかわりももうない。
手術のあと、私は姉貴に寄り添ってもらいながら帰宅した。
そして、葵に慰めてもらった。葵が私を見届けて帰った後、私はリビングにある透き通ったガラスの水槽を見ていた。そこには、タツノオトシゴがいた。
「うまお…君だけが支えだよ…」
私は水槽に餌を巻き口をパクパク動かして食べているのを無心に眺めていた。
この光景だけは変わらない。
私は何も失っていない。うん。きっとそうだ。
思い出したよ。
ぼくは堕とし子。
この人は僕のお母さんの由里さん。
ぼくと彼女との生活は本当に楽しいものだった。
だけれど、由里さんはそうじゃなかったみたい。
僕はあいつとのしがらみだったみたい。
だからすてられた。
僕と由里さんのせいかつはこれでおしまい。
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