役に立たない学問は軽視されても仕方ないのか
こんなnoteがあった。
もちろん、企業は、従業員を生活できるようにするのが第一優先事項である以上、どんな採用方針を取っていたとしても悪とは言いづらいのだが、こういう企業があることは残念に感じてしまった。
こうした企業を、既に引用元のnoteが、電気を例に、現時点では役に立たなそうなことが、将来どう役に立つか分からないとして批判している。
付け加えるのであれば、仮に将来も役に立たなかったとしても、その研究は軽視されるべきではないと考える。
まず、実用性がなさそうな研究でも、そのアプローチの副産物で実用性のあるものが生まれる可能性がある。
例えば、フェルマーの最終定理は、証明に300年近くかかったが、その定理それ自体に実用性は低い。
しかし、フェルマーの最終定理を解こうとするその過程は、様々な成果を生み出し、中には実用的なものもある。
(専門的すぎて、あまり語れないので気になった方は調べてほしい)
また、アプローチの副産物すら実用性を帯びていない場合でも、なお軽視されるべきではないと考える。
実用性は大事だが、それにとらわれること自体がナンセンスという話だ。
例えば、πは無理数である。
πが無理数であることなんて、証明されるまでもなくなんとなく分かるし、わざわざ証明を知ったからといって役に立つかといえば微妙だ。
証明も、数学界の発展には寄与しつつ、即実用的かと言えば微妙だ。(もしかしたら、私が理解していないだけで即実用的なのかもしれないが)
でも、πが無理数であることの証明がきちんと与えられていることは有意義なことではないだろうか。
それは、まだまだ未知の多い定数の一部を知った安心感であったり、知的好奇心の満足というべきもので、一見実用性と比べて重要度が低そうに思えるかもしれない。
しかし、人間に必要なのは合理的で便利な生活だけだろうか。
私は、人類にとって豊かさとは、それだけではないと思っている。
それを追い求めるすぎることは、かえって人間を貧相なものにしてしまうと、私は考える。