娘を支配する技術② 「死ぬ死ぬ詐欺」
人が人をコントロールする手法に「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれるものがある。
例えば、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死んでやる!」など、ある意味自分を人質にとって相手を脅して従わせようとするやり方である。
そして、世の中には、それを子供に対してやる親がいる。
私は、これをナチュラルにできる人間も「毒親の素質」があると、私は思う。母親が自分の命を人質に子供を脅す…それを躊躇いなく実行できるのは、一種の才能だ。
親子間の「死ぬ死ぬ詐欺」
親子間で「死ぬ死ぬ詐欺」が行われるとき、それはしばしば「ヒステリー(ヒス構文)」と併用される。
子供が親の気に食わないことを言った時、親は子供をヒステリックに罵った後、トドメとして「そんなこと言うなら、ママもう死ぬからね!」というのである。
母親にこう言われると、子供は必死で謝りながら泣き縋るしかない。
子供の側もある程度成長すると、親は「死ぬ死ぬ」と言ってもその可能性は高くないこともわかっている。…が、しかし、その可能性が1%でもあるならば、それを恐れて、疲弊しながらも対応をするしかないのである。
「死ぬ死ぬ詐欺」が詐欺にならない理由
「死ぬ死ぬ詐欺」はあながち「詐欺」ともいえない。それは、そこに「衝動性」が加わると、勢いで実行してしまう場合があるからだ。
母親との関係性について第三者に相談したとき、たとえプロのカウンセラーであっても「そういうの、死ぬ死ぬ詐欺っていうんですよ。本当に死ぬ気はないから大丈夫!」などと朗らかに返される時があるから辟易する。
「死ぬ死ぬ詐欺」が成立するのは、母親自身がまだ正気を保っている間だ。
「ママ死んじゃうからね。」
「ママ死んじゃうよ。いいの?」
などと、子供の様子をチラチラ窺いながら言っている時はまだいいのだ(よくはないが)。
怖いのは、それでも相手が思い通りに動かず、激情に火がついた時だ。
「ママの愛情を足蹴にしたわね!じゃあ、もういい!!死んでやる!」
叫ぶが早いか、衝動的に家中の薬の瓶の中身を飲み始めたりするのだ。
止めれば逆に勢いづき、その手を振り払って薬を無理やり口に入れるだろうし、止めなければ「やっぱり死ねばいいって思ってるんだ!」と薬を鷲掴みにして口に詰め込むだろう。
そして、勢いで飲み込んでしまうのだ。
刃物等による自傷も然りである。
止めても止めなくても、それが火に注ぐ油となり、衝動に拍車をかける。そして、本人も加減がわからない間に致死量に至ってしまうことがある。
本気の「死ぬ死ぬ詐欺」の恐ろしさ
一度、本気の「死ぬ死ぬ詐欺……の詐欺じゃないやつ」(つまり、「死んでやる!」と言った母親が救急車で運ばれて一命を取り留めたなど)を経験すると、「死んでやる!」と言われた時に、本当に死に至る可能性に心が縛られてしまう。
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読者の中には、こんな記事を書く私に対してこう思われる方もいるかもしれない。
「お前は、こうして自分の親を”毒親”などと言って罵っているのだから、本当は親に対してよからぬことを思っているんじゃないのか?早くいなくなればいいと思っているんじゃないのか?」…と。
言っておくが、断じてそんなことはない。
幸せな老後を送ってほしいと思っているし、そのためには尽力したと思っている。
だが、私にも人間としての主張がある。
人前で私をコケにして嗤い者にしないでほしい。勝手に私のものを勝手に処分しないでほしい。私の持ち物を漁らないでほしい。勝手に病院や美容院や結婚式場を予約しないでほしい。私が「お腹いっぱいだ」と言ったらそれ以上しつこく食べさせないでほしい。etc. etc…
そういった「行為」をやめてほしいのであって、決して母の存在そのものを否定しているわけではない。
「死ぬ死ぬ詐欺」応用編
「死ぬ死ぬ詐欺」はやたらと使うと「オオカミ少年」になってしまう。
よって、ターゲットが他の兄弟姉妹と結託すると、「あれは、ママの癖みたいなもんだからしょうがないよ」などと受け流されてしまいかねない。
母親がそこまで読んでいるかは疑問だが、事実、才能ある「死ぬ死ぬ詐欺師」は、ターゲットをまず孤立させるのだ。
ターゲットの娘に対しては、些細なことで「ヒス構文」と「死んでやる」を乱用するが、その姿を他の兄弟姉妹には決して見せない。自分の体を傷つけてボロボロにした後で、帰宅した他の子供達(ターゲットの兄弟姉妹など)が助け起こす寸法だ。
他の子供達はボロボロになった母親の姿に動転し、勢いに呑まれてしまう。
そして、母親自身も自分の行なったドラマティックな展開に呑まれてしまう。ヒステリーを起こすきっかけが何だったかなど、もはや誰も気にしていない。
弱りきった母親が嗚咽を堪えて言う、「あの子が…あの子が死ねって言ったの。こんなに献身的に子育てしてきたのに…、死ねって。だからもう、どうでもよくなって。もう死なせて。」という言葉に、そして雰囲気に、全員が呑まれてしまう。
誰もがごく自然に母親の言葉を信じる。
…そう、優秀な「死ぬ死ぬ詐欺師」は、ターゲットに対しては「死」を乱用し、それ以外の登場人物に対しては「死」を「切り札」として使う。
こうすることで、「流れ」を一気に母親側に持っていってしまう。
兄弟姉妹というのは奇妙なもので、他人に対する遠慮がない上、親子ほどの愛情(愛着)もない。だから、兄弟姉妹が攻撃対象となった場合、我々は相手に対して残酷な感情を持てる。これを利用すると、母親は黙っていても、他の兄弟姉妹がターゲットをやり込めてくれる。
母親は、自分のかわいい子供達が「母親の仇」に復讐してくれているのを病院のベッドから高みの見物しているだけでいい。
「切り札」の使い所
さて、私は先ほど、「死ぬ死ぬ詐欺」をターゲット以外に使うときは「切り札に」と書いた。
では、その「切り札」を使うときはどういう時か。
…ひとつに、それはターゲットである娘が、自分(母親)の手を離れて行こうとしている時だ。
つまり、標的娘が母親の元を離れることを心に決め、それが母自身の力だけでは抑えきれないことがわかったときだ。
そんなとき、切り札であるドラマティックな「死ぬ死ぬ劇場」を展開する。他の子供達に加えて祖父母や親戚なども巻き込んで、一気に「多勢に無勢」に持ち込んでしまう。短期決戦だ。
…ただ泣いたり怒ったりしただけでは止められないことがわかったとき、母は、自らの命を人質に娘に挑戦する。「母親を死ぬほど苦しめた」と印象付けることで、味方にした「多勢」は大きな戦力として働いてくれる。
「死ぬ死ぬ詐欺」でしつけられた子供の末路
「死ぬ死ぬ詐欺」をしつけの一環として使われて育つと、当然ながらその性格は歪む。
なにせ、自分の母親を人質に取られ、「殺すぞ」と脅されながらながら日常を送るようなものだからだ。(この場合、人質に取っている犯人は、母親本人なのだが)。
服装、髪型、化粧、ちょっとしたアクセサリー…そしてウェディングドレス。
「ママ、それ嫌いだな。」
娘は、その言葉の裏に「言うこと聞かないなら、死ぬよ?」という、発せられない言葉を感じて生きている。
世間は、そんな娘を冷笑する。
「良い歳して何でも母親の顔色をうかがう、自立のできない情けない若者だ」というのだから理不尽だ。
そして、何でもいうことを聞く従順な娘に仕上がった暁に、母は言う。
「私はこの子に命令したことなんて、一度もないわ。何でも好きにさせてるの。うふふ。」