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心照古教〜『大学』を考える〜【十二】

三綱領の典拠

「至善に止する」の参考文献

詩に云わく、邦畿千里ほうきせんりれ民のとどまる所と。
詩に云わく、緡蛮めんばんたる黄鳥おうちょう丘隅きゅうぐうに止まると。
のたまわく、止まるにおいて其の止まる所を知る。
人を以て鳥に如かざるべけんや。

詩に云わく、穆穆ぼくぼくたる文王、ああ緝煕しゅうきにして敬止けいしすと。
人君じんくんりては仁に止まり、
人臣じんしんりては敬に止まり、
人子じんしりては孝に止まり、
人父じんぷりては慈に止まり、
國人こくじんと交わりては信に止まる。

「大学」

いつもお世話になっているテキスト(伊輿田先生、安岡先生)の解釈を要約すると、こんな感じです。

『詩経』には、こう書かれている。
王城の周辺(邦畿)千里は、文化が進んで経済も発展し、人にとって、とても生活のしやすい環境だった。だから多くの人がここに留まった。

美しい声で鳴く黄鳥(鶯の一種)は、
山の隅の、人が立ち入らぬところに止まる。そして孔子は、これについて
「黄鳥も止まるところ(どこにいって安ずるべきか)を知っている。
 人もまた止まるべきところがある、これを知らねば鳥にも劣るであろう」と仰った。

さらに、『詩経』では、
文王という人は、その徳が深遠で測り難く、
「ああ、なんと光り輝いて止まず、悠々として敬虔であられたことか」と
賞賛されていた。

彼のあり方は、
人君としては民衆に仁愛を加える
人臣としては命を受けて職分を尽くす
子としては親に孝を尽くす
親としては子を慈しむ
国民と交われば信を尽くす
というものだった。
これは誰もが到達するべき所である。

しゅうという字は連続・統一・永続を表す文字、
は光り、楽しむ、光明を表す文字、
けいは我々の精神の向上に向かって統一されている状態、
敬う、つつしむ。
穆穆ぼくぼくは非常に徳のある、内容の豊富なこと。
そういう文王には雑駁な、刹那的な場当たり的なところは一つもない
常に変わらず明るくて、敬虔で悠々落ち着いている。
これは「止」に関する参考文献であります。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

これまでの経験として、
「(実感は湧いていないが、こう言われているから)こういうものだ」
と理屈で理解した「至善」に「止まろう」とこだわると
むしろ偏って、次第に「独りよがり」というおかしな方向に進んでしまう…と学んでいます。

これに対して、
内省によって自分が感情的になるポイントと向き合い、
ずっととらわれていた
「特定のものの見方」から解き放たれた時の感覚は、

「こういうものだ」で納得していた時に感じていた
感情があばれるのを抑えつけているとき特有の鈍感さと閉塞感
とは打って変わって、

「それまで憎悪の目を向けていた対象を
 しずかな眼で観ることができている」
時に感じるような、
落ち着き(安心感)が感じられました。

する」先が「安んずる」場所であるなら、
この感覚に注目していれば、「止する」ということが
どういうことかがわかってくる気がしています。

→切磋琢磨


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