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心照古教〜『大学』を考える〜【十七】

私のこう在りたい姿 「みこと」(一)

所謂その意を誠にすとは、自ら欺くなきなり。此れを之、自謙と謂う。

造化の働きを「命」という。
「誠意」とは、自らが自らを欺かないことを言うのである。
造化の働き、大自然の働きは絶対であるが、己自らあきたりて、即ち自謙してなんら他に求めるところがない。
何によって、何のためにというのは人間の考えることであって、造化の働きは決して相対的なものではない。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

※「造化」についての解釈
この宇宙が成り立っている本体が「道」で、その「道」が人間に発して「徳」になる。その「徳」が我々のいろいろな社会活動になる。
その社会活動を「功」という。これは人間を動かす「力」である。
この道・徳・功・力というのが人間活動の4つの範疇です。
「道」がどういう働きをするかというと、知らずらずのうちに物を変えてゆく、化してゆく、作用を及ぼしてゆく、これを「造化」と言う。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

知らず識らずのうちに物を変えてゆく、
化してゆく、
作用を及ぼしてゆく造化の働きを「命」という。
これは宇宙法則そのもので、違反することができない。
だから、私たちを絶対的に促すようなもの、
従わざる得ないものを「命令」と呼ぶそうです。

我々の人格というものは、地位とか、財産とか、名誉とかによって存在する非常に相対的、末梢的な存在であるが、人物ができてくるほど、そういう相対的な支配を受けずに、次第に絶対的になるわけであります。
世俗的ななにものを奪っても、尚且つ毅然として存するところがある
というのが本当の人格、道人であります。
西郷南州のいわゆる「名誉もいらぬ名もいらぬ、始末に困る人間」でないと駄目であります。なんと非難されようが迫害されようが、少しも動揺しない絶対者、神道ではこれを「みこと」という。
そういう人が尊いから、「尊」という字をみこと﹅﹅﹅と読む。
そういうように、自己を絶対者にするということは、自分自身純一になるということで、換言すれば、それが「其の意を誠にする」ということであります。

「名誉もいらぬ名もいらぬ、始末に困る人間」

西郷隆盛がこう評した人間を知っています。
私の大好きな山岡鉄舟やまおかてっしゅうです。

1968年(慶応4年=明治元年)3月に、官軍を率いて江戸に迫る西郷と、駿府(静岡市)で最初に直談判したのが鉄舟でした。
西郷は「始末に困る人なければ、共に天下の大事を誓い合うわけにはいかない」と高く評価しました。鉄舟は、西郷と勝海舟(1823~99)との江戸城明け渡しの会談にも同席しました。貧乏な旗本出身ですが剣・禅・書に通じた無私無欲なサムライでした。
鉄舟の特徴は目先の利害損失を度外視した人間性にありました。西郷も事を成就するためには、自分の生命を投げ出してかかる傾向がありました。西郷は鉄舟の中に相通じるものを感じたのかもしれません。

日経BizGate「「江戸無血開城」陰の主役・山岡鉄舟の抜てき人生」

社会人人生駆け出し期の、
私の推しです。
関連資料を探して読み漁ったり、
墓所である全生庵に伺ってこっそりお墓参りしたり、
幕末志士の人格形成の土台になった四書五経を素読しよう
と思い立ったのも、この人がきっかけです。

当時の目標は、
「なんと言われようと、これが私の“道”だと思えるものを持つ」
でした。

それが
自己を絶対者にするということ
自分自身純一になるということ
だと思っていたからです。

→私のこう在りたい姿 「みこと」(二)


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流記屋
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