心照古教〜『大学』を考える〜【四】
己を修めて、国を治めるための人間学
『大学』の出だしは、
「明徳を明らかにするにあり。」の後に
「民に親しむにあり、至善に止するにあり」と続きます。
これは、
大学の三綱領
と呼ばれていて、
『大学』の教えを学ぶ眼目、主眼、重点、要点…
「なんのために、『大学』を学ぶのか」
それが、この3つに集約されると言うことだと思います。
私は、
「大人」とはつまり、
「自身の明徳を燈にして、一隅を照らせる人」
と言うことだと受け取っています。
民に親しむにあり
「理想」へのこだわりもまた、不調和を生み出す
この伊輿田先生の解釈に
修行時代の自分を照らし合わせてみると、
「会社大人」になろうと踠いた“なり損ない”
といった感じだと思います…。
会社のために率先して働いてはいましたが、
本当にその会社と一体化していたとは言えなかったと思います。
私がしたかったのは、
私の描いた理想の体現だったんだろうと、
今となっては振り返っています。
なぜなら、
同僚や上司に「小人的な振る舞い」を見出した時、
私自身が元気なうちは、
事実を受け入れた上で自分にできることを模索していましたが、
似たような状況が続いて次第に自分が追い詰められてくると、
こんなやつらにぶらさがられるのはもうごめんだ、
自分の足で立たんか横着者
自業自得で地獄に沈んだらいいのに、
みたいな嫌悪感に支配されたので…。
私もまだまだ小人の域を出なかったということです。
だから、上司からかけられた言葉が
まるで見当違いだと感じても、反論する気にならなかった。
ただ私の感覚がここに合わないというだけだと決めて、
離れることを選んだ。
会社と一体化できていたら、きっともっと粘ったはずです。
一体化したら腐ると思ったからあっさり離れたんですけど。
この辺は、半生を通して重ねてきた
「理論武装」と「心への打撃」のミルフィーユで
カウンセラーさんから「複雑骨折」と言われた箇所に
触れる部分なので、
まだちょっと膿が残っているかもしれません…。
お口が悪くなったら申し訳ない。