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3月19日の開白に向けて「辻政信氏の調査考察」2024.3.15

2024年5月3日、和歌山県の三石不動尊にて
「辻政信氏と七人の僧 ならびに第二次大戦A級戦犯の方々」の
慰霊祭が執り行われます。

三石不動尊では
毎年恒例で、5月3日に
不動瀧を拝する慰霊祭をされているようなのですが、
奇しくもこの日は、
辻政信氏のお父上のご命日でもあったようです。

今年(2024年)の1月14日に
「辻政信」氏についての調査考察を頼まれて以降、
彼についての書籍や、彼自身の著作を頼りに
考察を進めて参りました。

三石不動尊では、辻政信氏のことをきっかけに
その後も、慰霊を求めて
A級戦犯の軍人さんや戦没者の御霊が
集まってこられたため、
彼ら全員のための祈りの場となるようです。

私は当初お受けしたお話しの通りに、
辻政信氏を専任する心算でここまで来ました。

わかっていることよりも、
わからないままのことばかりが
増えていっているように思えますが、

3月19日には慰霊祭の開白法要が行われるということで
一つの節目を迎えるものと思い、
これまでに得た情報をまとめて
自分なりの解釈をここに記そうと思います。

これは中間報告です。

辻政信氏の調査考察 : 「失踪」という最期

失踪の事情

辻氏の奥様が、昭和40年(辻氏失踪後)に書かれた
新装版『潜行三千里』のまえがきに、
辻氏が海外視察に出向いた理由を慮る一文がありました。

<新装版まえがき> 辻 千歳(著者夫人)

「潜行三千里」は昭和25年の夏に毎日新聞社から発行されましたが、
幸いご好評をいただき、たびたび版を重ねてまいりましたほか、
海外でも英語・フランス語・タイ語・中国語に翻訳出版されました。
この本は、終戦20年を機に、装を新たに再出版されたものです。

15年の歳月の間に、世界の情勢にも大きな変動がありました。
とくに辻が当時潜行したある国では、
いつ果てるともしれない戦争が続けられております。
同族が2つに分かれて戦うからには、
それなりの理由があってのことでしょうが、
これ以上に悲しいことがあろうとは思われません。

昭和25年1月追放を解除され、
その後、辻は中立論と称する理想論を唱えました。
これは現在の日本では空論としてしりぞけられるかもしれませんが、
彼は自分の提唱する中立論を必要とするであろう
と信じる新興国の内情を、
自分の目でたしかめようと思って現地視察に行き、
ついに深入りしてしまったものと思われます。

昭和36年6月ごろ、
当時動揺を続けていたラオスの首都ビエンチャンの近郊
消息を断つにいたりました。

彼の失踪は身にやましい理由があってのことではなく、
ましてや戦犯容疑に問われたためではないと私は信じております。
突発的事故なのか、彼の意志なのか、
不明のまま、4ヵ年の歳月が流れました。
いまはただ1日も早く安否が確認されることを念じてやみません。

この本を読まれる方がたに、辻が理想とするところを、
少しでも理解していただければ、彼も本懐と思うことでしょう。

昭和40年7月  辻 千歳(著者夫人)

メコンプラザ メコン圏と大東亜戦争関連書籍 第7回「潜行三千里」(辻 政信 著)

辻氏は、
精力的な執筆活動•講演活動のなかで
「中立論」という理想の実現を目指していた。
大陸の新興国にその必要性が「あるに違いない」と信じて、
中国大陸に再び足を踏み入れた。
奥様は、辻氏が消息を立って4年が経ったあと
そのように解釈しています。

掲げた理想

辻氏が唱えた「中立論」とは、
具体的にどういったものだったのでしょうか。
「中立」の文字が見える著書を2冊見つけました。

1952年に出版された『自衛中立』と、
1961年に初版発行された『中立の条件』です。
『中立の条件』に至っては、1961年という
辻氏が失踪した年に出版されています。
『潜行三千里』をはじめとする数多の著書を出版されて
15年が経った晩年に、何を考えていらっしゃったのか
その手がかりになるのではと期待できます。

手に入り次第、目を通したい文献です。

とはいえ、未入手のため
いまは
辻氏が前半生を振り返り、語るということをされていた
1950年代の著書を読んでいます。

1度目の中国大陸潜行ーー『潜行三千里』

辻氏は、
1945年(昭和20年)8月15日の正午に流れた玉音放送を
タイ•バンコクの十八方面軍の司令部の地下室で聞いたそうです。

軍司令部最後の会議で
上官から「潜行」を頼まれ、
自らも望んでタイへの潜伏を選んだと『潜行三千里』には記されています。

私がお寺でお世話になっている間、
住職さんがタイに旅に出られることがありました。

住職さんは、辻氏が最初に潜伏していた
リャープ寺(ワット・ラチャブラナラー・ ウォラウィハーン)
に滞在されたということで
私も、過去にこのリャープ寺の日本人納骨堂を訪れられた方の
ブログで、情報を得ていました。

丸紅社友会HPの記事「タイ国バンコクの日本人納骨堂」に添えられていた写真

感覚的に読んでみると、

不吉の予兆と感じさせる妖しい雲が、
東(アジア)の天を一面におおっている。
百鬼が隠れもせず白昼より故郷の山を蹂躙して歩き、
(私は)はかりきれないほどの熱涙をこらえて
僧形(黄衣)となり潜んでいる。
この潜伏の間、私は
釜中(間もなく死が迫っているような状況のなか)で
心魂を鍛えてきた。

1945年10月11日(私の誕生日)にこの詩をつくり、
この日本人納骨堂を後にして、
決然として潜行三千里の旅に出る。

我流訳文

といったところでしょうか。

もともと、一番最初の潜伏先にタイを選んだのには
同盟国だったタイへの親しみと思い入れが強く影響していると思われます。

腸が千々に裂かれるような苦悶の後、一人で大陸に潜り、
仏の道を通じて日タイ永遠のくさびになろうと決意した。

『潜行三千里』

浜田参謀副長は、静かに口を開いて、
「辻君、頼む。これからの日本は十年二十年忍ばねばならぬ。
 できることなら中国に潜行し、
 アジアの将来のために新しい道を開いてくれんか。
 台湾人で海賊の頭目をしていたものがいる。
 君がもし台湾に行く希望があるならいつでも世話するよ」
と述べられた。

「台湾も悪くはない。
 しかしタイ国にはアパイオン総理があり、アーツ少佐がいる。
 何とかして坊主になりタイ国に潜ろう」と覚悟を定めた。

『潜行三千里』

辻氏の生家は、
炭焼きを生業とする在家ではありましたが
浄土真宗の道場として
地域の寺院の役割を担っており
信心深い仏教徒の家だったようです。

僧侶が馴染み深い存在だったからこそ
リャープ寺潜伏中は僧侶になりすまして過ごすことができていた。

戦没者たちへの弔いに念仏も唱えていたそうです。

1961年に失踪する直前、
最後に日本人に目撃された姿もまた僧侶の姿だった
ということからも、
仏道への信心が辻氏にとって大きなものだったのは
間違いないように思えます。

ただ、辻氏は
リャープ寺の日本人納骨堂に見切りをつけ
中国に亡命する決意をします。
タイでの潜伏の顛末を、彼は以下のように書き残しています。

七人の若者がとぐろを巻いていたときはさすがになかったが、
五人減り七人減っていよいよ智野老と二人だけになってから、
時計が盗られ、僧衣が盗まれ、
残ったものはボロボロの毛布一枚になった。

別に敗戦の日本人を軽蔑し、また敵視してやる悪戯ではないが、
動物的な本能である。
野良犬が路傍に落ちている餌を拾うのと
同様にしか考えてはいない。
親が子に指図して盗ませているのさえある。
追えば散るがまた舞い戻ってくる。
警察に訴えたら、盗まれる方が悪いと答えられた。

…(中略)…

半夜、鎚の音に目を覚まして、寺の外を巡ってみたら、
数名の泥棒が隣寺の境内にある王族の墓をあばいていた。

十年の覚悟でタイに潜り、仏教を通じて日タイを結ぼうとした
最初の決心が次第に自信を失って、
どうにかして中国に潜ろうと考えるようになったのも、
こうしたことが原因だった。
対華僑工作はかくして始まった。

『潜行三千里』より

辻氏はその後、
スリオン街(スラウォン通り)にあるとされた
中国国民党のスパイ組織「藍衣社」の事務所を訪れ、
自身の有益性を売り込んで彼らに亡命を助けてもらい
中国への入国に成功しました。

工作のためには人を殺すことを何とも思わない青年たちではあるが、
私生活は無邪気で朗らかであり、
情誼もなかなかこまやかなように見受けられる。
これからの脱出計画は、これらの青年たちによって綿密に計画準備された。
(中略)飛行機を希望したが、英軍の検査が厳重なために
汽車で発つことになった。ウボンを経由し、ビエンチャンに出て、
ハノイから重慶に入る由。なかなかの長旅だ。

『潜行三千里』より

『潜行三千里』では、
タイとラオスの国境にあるウボンの街から
メコン河の国境の渡河点までをつなぐバス(木炭自動車)に乗って移動し
国境の関門で行われた臨時検査をうまく誤魔化して
丸木舟に乗ってメコン河を渡り
フランス領インドシナに入った…という描写がありました。

そこから重慶、南京と移動し
中国国民党に協力したのち、上海から
日本の佐世保までを船で渡って
帰って来られたそうです。

その後、GHQの追及が解除されたのを機に、
潜伏中に書き溜めていた原稿を出版という形で
公にしていきました。

これによって「時の人」となった辻氏は

「あの頑固な辻が、田辺の言うことは、素直にきいた。
 相識り、相信ずる、まさしく知己の真情である」

と評されたご友人に引き止められながらも、
生来の気質上、不向きと思われる「政治家」の道に進んでいきます。

15年後、現職議員として向かった海外視察

まず、辻氏は何のために
十五年越しに大陸に舞い戻ったのか。

私が一番最初に辻氏を知るために手にした
前田啓介氏の『辻政信の真実』では、
すでにその理由が特定されていました。

それは、

「ベトナム戦争を目前に、ハノイでホー・チ・ミンと会談し、
 ベトナム戦争を止めることはできないにしても、
 それに関する情報を得て、
 まもなく渡米する池田首相の「お土産」とする計画を持っていた」

というもの。

(辻氏の)長女・英子の夫でその後衆議院議員となる堀内光雄も、
辻の今回の旅と、池田との関わりを明かしている。

 そもそも、なぜラオスに向かったかというと、
 辻は『訪米する池田に土産話を持たせるために、
 いろいろなところを見てくる』と話していました。
 池田勇人首相が訪米し、
 ケネディ米大統領と首脳会談する予定があったのです。
 当時、インドシナ半島はベトナム戦争が始まるなど大変でしたから、
 自分の目で見て分析し、
 それを首脳会談で池田さんがケネディに披露すれば
 日本は信頼を得られると思ったのでしょう。

 益谷秀次さん(当時、自民党幹事長)にその話をしたら、
 『ぜひ、やってくれ』と言われ、餞別をポンとくれたそうです。
(『読売ウィークリー』2007年4月15日号)

『辻政信の真実』

さらに、池田首相との関わりを示す上で重要なのは、
辻の次男・毅の証言だ。

「B5判の便箋にびっしりと書き込んだ、
 家族宛ての分厚い手紙があります。
 そこには、4月4日から20日までの出来事をつぶさに書いている。
 誰に会っているとか、何をしたかとか、全部分かっています。
 カンボジア経由でタイに行ってとか、その模様が書かれている。
 タイからラオスですね。
 ホー・チ・ミンと会う工作を進めて、
 そのためにラオスからの旅だった。
 まさに日記に書いてあります。
 ベトナム戦争を止めるために行っていると書いている。
 池田勇人総理と現地から国際電話で
 1時間話をしたとも書いています。
 アメリカからいろいろと注文があったんだと思います」

この手紙とも日記とも表現される辻の報告書は、
その後、「辻レポート」として一部雑誌でも話題になる。
そのすべては、今も辻の家族しか見ることはできない。
だが毅によると、「辻レポート」は
それだけで完全なレポートとなっているわけではなく、
実際に日記のようにその日あった出来事が書かれているだけだという。
辻は帰国後、このレポートをまとめ、
その上で報告しようとしていた可能性がある。

『辻政信の真実』

池田の秘書の伊藤の橋渡しで、
辻が出発まで3回前後、池田首相と会っていたという情報もある。
伊藤は後年、週刊誌の取材に答えてこう述べている。

 いわゆる『便宜供与』をはかったことはあります。
 それで、池田さんもそのとき、いくらかの金を出すことにした。
 辻さんのところに持っていったのはわたしですが、
 金額についてはわかりません。[中略]
 辻さんは池田総理のことをたいへん買っていた。
 派閥は違うが、岸内閣時代の反乱の同士でしたし、
 そこで、辻さんとしては、ご自分の実情調べの結果を、
 時の総理に報告して、
 なんとか国際情勢の役に立てばとしたのじゃないですか。
 それがいうところの『辻レポート』でしょう。
(『週刊サンケイ』1967年3月27日号)

『辻政信の真実』

伊藤の発言の通りならば、
現地での情報収集は池田の指示ではなく、
辻の提案だったということになる。
そもそも、外務大臣が
各大使館に便宜を図るよう指示を出していることが
公電からは分かっており、伊藤もそのことは認めている。
また、いくらかの金を渡したことも認めている。
池田との関わりは確認できても、
どの程度まで辻の行為にかかわっていたのかは分からない。
辻の行動力と知力の高さは広く知られており、
この男なら何かやってくれるかもと思われたとしても
不思議ではない。何せ「潜行三千里」の辻である。
辻にすれば、ハノイでホー・チ・ミンと会談し、
ベトナム戦争を止めることはできないにしても、
それに関する情報を得て、まもなく渡米する池田の
「お土産」とする計画を持っていたことは間違いなさそうだ。

『辻政信の真実』

謎の多い失踪前後の足跡については、
この『辻政信の真実』にすっかり頼っています。

前田啓介『辻政信の真実』より

私が三週間お世話になったお寺の住職さんには、
巫覡ふげき的な一面もおありだそうで
ラオスの「メコン川」が
辻政信氏の死に関わっているとおっしゃっていました。

辻氏の奥様の書き様を見るに、
消息を立ったのは「首都ヴィエンチャン近郊」。

そして、私が理解のためにおおいに頼ってきた
前田啓介著『辻政信の真実』にある図解によれば
ハンビエンやジャール平原を通ってベトナムへ入り
中国へ向かうルートが推測されている。

これに関して、
今の私にはいまいちピンとくるものが無いので
いずれ点と点がつながっていくことを待つよりほかないと判断し、
ひとまず記すのみにしておきます。

私が感じたこと

慰霊祭を執行される僧侶の方は、
私がお世話になったお寺の住職さんだけではありません。

参加される皆さまが、慰霊にあたって
辻政信氏の晩年の事情に、
それぞれ思いを馳せていることを
住職さんから伺いました。

そのなかで
「辻政信氏は自殺したのではないか」という推測が
されていたらしいことも耳にしました。

これに関して、私はこれまでに知った情報を元に

「辻政信氏が
 仕事を自殺に使うような
 無責任をする人には思えない」

という意見を持っています。

ただ、『辻政信の真実』に書かれている以下の推察には
信憑性を感じています。

辻は帰るつもりだった。これはおそらく間違いない。
ただ、本人は意識していなかったが、
死への予感めいたものがあり、
それは無意識のうちに言動となって現れた可能性はある。

『辻政信の真実』

辻が潜伏期間中、
世話になった東京・湯島にある画廊「羽黒洞」の経営者、
木村東介にフリーライターの橋本哲男がインタビューを行っている。

 昭和三十六年三月、辻さんはラオスに行く直前、
 私に会いたいと言ってきました。
 私が会うと、こんなことを話したのです。

 木村さん、いままでだれにも言わなかったが、
 私は死場所を探しているのです。
 夜寝ていると、死んだ部下が、夢枕に立って、
 早く来てください、早く来て下さい、と私を呼ぶのです、と。

 彼はベトナム戦争をやめさせるために
 ホー・チ・ミン大統領に会いに行ったことになっていますが、
 それは形の上で、本当は死場所を探しに行ったのだと思います。
 辻さんは死者の霊魂に迎えられて、東南アジアに行ったのですよ。
(橋本哲男『辻政信と七人の僧侶』)

しかしこの証言は、
辻が池田のために東南アジアに行き、
ホー・チ・ミンにベトナム戦争阻止の約束を
取り付けようとしていたことと必ずしも矛盾しない。

千歳に対しても、辻は出発前に旅の理由を
「東南アジアで戦没した将兵の回向、公務、視察」
と伝えているわけだからだ。
たとえ、そこで命を落としたとしても、
家族のもとに送られた「辻レポート」があれば、
任務を遂行したことになる。

『辻政信の真実』

実兄や、兄と慕った上官が先に迎えた天寿の歳に
自らが近づきつつあることを気にされていたのなら、
己の一生を俯瞰して、
「いかに死にたいか」という引き際について
ふと考えることもあったと思います。

それは希死念慮や自殺念慮とは別物の、
「いずれくるであろう終わり方をどうするか」という
備えの感覚だと思います。

私は一種の運命論者だ。
生れるときに自分の力で生れたものではないとしたら、
死ぬのもまた自分ではどうすることもできない。
端的に言えば、生も、死も、大きな運命に支配されているということだ。
[中略]私の過去を見て、辻は生命知らずだ、
勇敢だとほめる人がたまにはあるが、それは皮相の見方だ。
死なぬと思っていても弾丸がくると恐いものだ。
恐いから私は戦場では冷静によく勉強する。
一つの石にも、一本の木にも、
弾丸が来たらそれをどのように利用するかに
十二分の気を配りながら行動する。
その研究と対策があって始めて、大胆そうに弾丸の中を潜れるものだ。
それを知らずに私の真似をして、大胆そうにやるものはすぐに撃たれる。
戦場で弾丸を受けると怖いのが当たり前であり、
その怖い中を任務に従って行動するには、勉強することだ。

そして死ぬまでは、絶対に死なないと思っているに限る。

六十に近くなって、始めて感ずることは、
時が大切だということである。
一時間、一時間がローソクのもえて減るような気がするが、
こんな気持は、二十代や三十代のときは少しもなかったのに。

とすると、余り長生きしないのかも知れない。
時間をムダにすることは生命を浪費するような気がしてならぬ。
残り少いから起る本能でもあろうか。

『辻政信の真実』「ズバリ直言」からの引用

上記にある回顧の言葉には、
辻氏の葛藤と諦観が滲んでいるように思えます。

一生を悔いのないものにするために、
いま必要だと思った行動に、生来自らを支えてきた
「意気軒昂」を発揮して飛び込んだのかもしれないし、

迫る死期に、「いかに死ぬか」を計した結果
ここでなら死んでも良いと、戦線を選んだのかもしれない。

死ぬ気で勉学に励んで陸軍幼年学校に入学してから
三十年、軍人として死地を生き抜いてきた方ですから
生死の問題は、
安全圏から観念を捏ね回すだけに終始しかねない現代人
の感覚よりも、よほど精錬された覚悟をお持ちだと思います。

何を求めれば、辻氏の慰めになるのか
私には想像することしかできません。

この調査考察が、辻氏の御魂にとって
ほんとうの意味での救済になってくれることを心から願っています。



2024年3月16日 拝

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流記屋
知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。