心照古教〜『大学』を考える〜【二五】
一家仁なれば、
本文
我流訳文
国民の上に立つ政治家(君主)が、
身を修めて家の内を教化することによって
その一家が、お互いに仁の心を持ちあい
和やかにととのっていると、
自然と仁の気風が国中に満ちるようになる。
同様に、上の者の一家が
お互いに身を慎んで譲り合うようであれば、
自然と国中にお互いを尊重し合う気風が興ってくる。
これに反して、
もし上の者が自分の権威を勘違いし貪欲で徳に背くような振る舞いをしていれば、国民もこれに倣って放埒に振る舞うので、国が乱れる。乱が起きる。
国が治り太平であるのも、乱れ争うのも、
その根元には上に立つ者の些細な心がけによるので、
これを「一言事を憤り、一人國を定む」(機)という。
古の聖天子と言われる尭舜が率先して指導すれば、
民はこれに従って仁を行う。
夏国の桀や、殷国の紂のような悪王が暴逆を縦にして天下に率先すれば、
民もこれに倣って暴逆を為す。
桀紂のような悪王でも、民に暴逆を行えと号令した訳ではない。
号令の内容が、悪王自身が好む暴逆と裏腹なので、
民も自身の好むところに従ってその号令に従わないのだ。
君子は「自分自身に善なる徳がある」状態になってから人に善を要請し、
「自分自身の非」を改めてから人の誤りを改めさせる。
自分自身に「忠恕の徳」がないにも関わらず、
口先や法令の強制で人を諭すことはできない。
だからこそ、
国を治めるにはまず家を斉えよというのである。
思うところ
神仏は目に見えないエネルギー体だという話を聞いて
「なるほどなあ」と思ったことがあったのですが、
エネルギーの世界を認識してからこの文章を読むと、
「身の本は一念に在り。一念の発する、すぐに向こうに響き著はれる」と表現される状況がなんとなく想像ができる気がしました。
「一念の発する、すぐに向こうに響き現れる」というのは、
自分のエネルギーが、自分の身体周辺のエネルギーに影響を与える
ということを言っているのかな、と思いました。
エネルギーの変化が現象として現れるのだから、
どう「気」を持つかによって周辺の現象が変わってくるんだろうな、
というのが素人ながらに想像した「仕掛け」です。
そうだとすると、いよいよ
心がけによって周囲を「照らす」ということの大切さが迫ってきます。
上機嫌に溌剌としたエネルギー状態を保つために、
自分の感情を正しく処理する。
つまり、
存在自体を認めて、健康でいられないものは手放す。
…これは経験則ですが、
存在を認めないと、身の内に「告発者」が現れます。
告発者は「認めずに沈めた感情」に気づけと
記憶や認知の仕方を使って
そういう場面ばかりが目につくように意識を誘導してきます。
だからいつまで経っても捉われることになるんだと思います。
さっさと認めて、
「もうわかったからその情報いらんよ」と
「感情の告発者」を成仏させてあげないと
誰も幸せになりません。
そして溌剌とした新鮮なエネルギーに切り替えて、
好き循環を巡らせたい(願望)
いま脳内で、松岡修造が
「もっと熱くなれよおおおお」
と叫んでいます。
惰性をほったらかしにしておくことよって起こる
「気の停滞」の影響が、
自分一人の身の内では済まず
周囲のエネルギーにも影響を与えるということ
になってくるなら、うかうかしてられないですね。