見出し画像

【辻政信氏の調査考察】2024.3.29『亜細亜の共感』読解

『亜細亜の共感』は1950年、
戦犯指定解除後に、立て続けに出版した本の中の一冊です。

発行者(出版社)は佐藤勝郎氏。
辻氏の、士官学校時代に教え子だった方です。

今回は、辻氏が東亜連盟の一員となった経緯を
探っていきたいと思います。

辻氏の回想によれば、

初陣前、陸軍歩兵少尉を任じられたばかりの当初は、
「中国」を外国として敵視していたそうです。

それは当時の日本の風潮であり、
メディアは盛んに大陸侵略の情熱を煽っていた。

辻氏自身は、陸大に入るまで
この「敵意」に同調してはいたものの、
大陸進出を夢見るような風潮とは一線を引いて、
冷徹に、またわき目もふらずに
「兵学の研究」と「与えられた軍務」に没頭していた…

ということなのですが、

陸大に入り、戦線の実際を見聞きするうちに、
勉強よりも実際問題が気になって、
そちらの解決に身を投じることに
意欲を燃やすようになったのだそうです。

陸大卒業の年、自身の成績よりも
「満州問題を解決するには、国内の革新もやむを得ない」
という思いが強くなり、
「国内革新」を謳っていた陸軍の秘密結社「桜会」に
参加されたそうなのですが、
その「桜会」に属する将校たちの
クーデター未遂事件の顛末を知ったことで、
以降、「国のため」を謳った煽動に
疑いの目を向けるようになったようです。

事件の真相を聞くと、信頼した桜会の先輩達は、
赤坂の待合で流連し、謀議したため発覚したとも噂され、
或は故意に漏らし、決行に先だって検挙を受けたとも言われている。

殊に心外であったのは、
謂はゆる事件をリードした人々がクーデターの後に、
総理や陸軍大臣の椅子さえも狙っていたことが、判明したことである。

生命を捨て、妻子を棄てて、
唯々国のために死のうと悲壮な覚悟をしていたのに、
これを指導した先輩は、「死ぬ」気がないのみならず、
犠牲を踏み台にして、
栄達を夢見ていたのではなかろうかとの疑惑が深く起こった。

当然の反動として、彼等に同様の手段で煽動されている青年を、
救わねばならぬとさえ考えるに至った。
まさに百八十度の大転換である。

「国内の風潮」への信頼に傷を負った辻氏を、
東亜連盟の理想に導いた先覚のお一人に、
まず、「林大八大佐」という方がおられます。

「中国を愛し、中国に全生を尽くした慈父」

このかたは、辻氏が陸大卒業後に配属された金沢連隊の
連隊長をされた方で、
辻氏の中で1番はじめに起こった、
亜細亜意識の萌芽を扶けられた方…
と思われます。

新しく連隊長に着任された林大八大佐は、
大尉時代から諜報勤務に従事し、単身満州の奥地に、
或はシベリヤの各地に潜り込み、或は毛皮商人に化け、
或は苦力に混り、或は馬賊の群とともに地形を偵察し、
民情を視察し、大陸政策の推進に身を以て活躍した武人であった。
板垣大将と同期の盟友で、シベリヤ出兵当時には、
軍に先立ちて単身ハバロフスクに入り、必要な情報を集め、
或は黒龍江を遡ってブラゴヴェシチェンスクに、
更にチタ方面にまで潜入し、幾度か死線を突破して重任を果たされた。

中国を愛し、中国人を信じ、中国人に信頼されながら、
張軍閥から虐げられた民衆を救い出すことに、
全生を捧げ尽くした大陸型の武将であった。


その人が連隊長として新しく着任せられ、
蘊蓄を傾けて青年将校を指導されたことに、
大きな感化を受けたことは今もなお忘れ得ない思い出である。

死を、死とも思われない林連隊長には、
反面において慈母の愛より深い部下愛があった。
手に負えない癖馬、脱線しがちの青年将校を、
或は酒間に、或は練兵場に、大きく包容されながら
諄諄として教え導かれた隊長は、
着任後僅かに半年も経たない間に、全連隊将兵の敬慕の中心となった。

独りよがりの思想が、
この大先輩によって次第に内容を豊かにされ、
亜細亜意識が自然の裡に芽を出していった。

ただ、林大佐は
辻氏の初陣である「第一次上海事変」で戦死されます。
辻氏は、当時の自分は
「慈父」と慕う連隊長を失い、十数名の部下を失った心痛から
「敵」として戦った中国に対して、憎しみを強くしたと
率直に語っています。

「連隊長戦死!」
の凶報が突撃成功の直後、全線に伝えられた。
慈父を失った悲しみは、敵への憎しみを増し、
その仇を報ずべく、死んだ連隊長の腰の水筒に残された酒を、
僅かづつ乾杯し、血をすするような気持で、後方陣地に必殺の剣を揮った。
第二回目の負傷を右腕に受けたのはこのときであった。
約十日間の短い戦闘で、十二名の部下を失い、二十数名を傷つけ、
林連隊長を殺された心の痛手で、敵を愛するような、
おほらかな気持ちは薬にしたくもなかった。
「骨の随まで砕いてやろう」と、眥を決して戦った。

中国を愛した林大佐の在り方に感銘を受けても、
それは林大佐への敬意であって、
中国への敵意を簡単に拭うことはできなかった。

まして、林大佐の命そのものを
中国との戦いで奪われたような現実にあって、
即座に受け入れられるほど、辻氏は盲信的ではなかった。

三月三日停戦命令が伝えられ、上海の郊外に部隊を駐留させて、
約三ヶ月滞在したが、勝利の後の陣中には、
いまはしい萌しが現われ始めた。掠奪と、暴行と、不服従と。
戦後の犯罪は、戦闘で弱かった部隊に多発し、
上官暴行事件は、一番卑怯であると噂された某中隊長に対して起こった。
身をもって軍紀を粛清しようと、
決心の臍を固め、掠奪するもの、暴行するもの、
放火するものは階級の如何を問わず、
この刀でこの手で斬ると、中隊全員を集めて厳しく伝えた。
三ヶ月の無為の滞陣中を、激しい練兵と、楽しい相撲で、
性の本能を転換させたことは効果顕著であった。

このような軍紀の粛清は、
中国人を愛し、弱者を憐れむ道義心からではなかった。
それはただ自らの尊厳を保ち、英霊に愧じないようにとの心からである。

この時代に於ける私は全く好戦、侵略思想の権化であった。
初陣の大きな犠牲が、外交的には殆ど何等の収穫もなく、
妥協で局を結ばれたことに少なからぬ不満さえ感じた。

「何故強硬に、上海全市を武力占領しないのであろうか。
 少なくとも全中国における排日が根絶し、
 満州事変が望む通り局を結ぶまでは。」
と腕を扼していたとき、
偶々たまたま上海の新公園で、天長節祝賀の観兵式が行われた。

武装した一師団の将兵の眼の前で、
白川軍司令官植田師団長以下数名の軍、官、首脳部が、
唯一発の爆弾で殺傷された。

「恐らく排日中国人の復讐であろう。」
茫然自失した全師団に先んじて、
まづ部下の二小隊で裏門と表門を押え、
残りの一小隊で塀を越えて逃げるものを押えた。

犯人が全員逮捕され、それが朝鮮人であると発表されたとき、
当局の愚を笑った。
犯人が朝鮮人であったとしても、
中国人と決めつけて、これをきっかけに、
更に強硬に一切の外交事案を、武力を背景として
解決すべきであろうとさえ考えた。

「民族と、民族とは永遠に相戦うべき宿命にある。
 力のみが国際間においては正義である。」

という考えが、
気負いたった若い私の胸中に溢れる思想であり、見解であった。

この考えを改めるに至る経緯が、
『亜細亜の共感』には書かれています。

本書の流れを俯瞰するために、目次を引用します。

第1章 戦いを好むもの
 満州から上海へ
 督戦隊

第2章 我れ迷う
 空閑少佐帰る
 屍より盗むもの
 甘粛の旅

第3章 眼を開く
 先覚の導き
 共和会工作
 建国大学
 張作霖の葬儀
 阿片断禁

第4章 健気なる敵
 督戦より率先へ
 最後の一兵まで
 弾雨の中に仁王立ち
 屍を拾う敵
 三度戦う
 ビルマでの戦い

第5章 信を腹中に
 匪賊の友
 東亜連盟運動
 慕い寄るもの
 ああ汪先生
 脚下を洗う
 施策の断片
 将母を祀る
 頂門の一針
 将政権を対手にす

第6章 戦いを通じて観た中国人
 目覚めつつあり
 四千年を貫くもの
 天下無類の胃袋
 生活を楽しむ民
 地縁、血縁の固め
 老子の訓へ
 恕すもの

第7章 回顧と展望
 中国革命の歴史的観察
 亜細亜の共感

次回も、『亜細亜の共感』から、
後生の辻氏を突き動かした思想を読み解いて行こうと思います。

2024年3月29日 続く

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。