「忠恕」を深掘る
今回は、【二五】にあった「恕」について深掘りしていきます。
「恕を内蔵していないと人は聞く耳を持たない」とはこれいかに。
『論語』の里仁篇には、
「夫子の道は忠恕のみ」
とあり、
孔子の教えの眼目の一つは「恕」にあると言えるようです。
この「如」に「したごころ」がつくとなれば、
「心のまま」ということになるんでしょうか。
私なりに解釈すると、
自分の「心のまま」を知り、受け容れてこそ
「包容力・慈悲心」が生まれてくるということだと思います。
(ああ、わかる。それあるよな〜)とか
(私もその心理経験ある、しんどかった。この人も辛いだろうな)とか
そういう、
自分が把握している
自身の中の「人間だもの」の部分が多ければ多いほど、
他者にストーリーを見出して
共感したり、思いやりを発揮したりできるんではないかと思います。
無意識のうちでも、
自分ルールに自分を縛って自分を許せていないと、
「自分にも実現できてない理想像」と相反することをしている人に対して
「私は我慢してるのに、こいつなに甘ったれてんの?」
と勝手にジャッジをはじめてしまうから要注意。
この状態で、かつ堪え性が無いと、
「私は我慢してる」という謎のアプローチを始めて
ジャッジ&アプローチされた側にうざがられる
という負の連鎖が始まるんだと想像します。
ありのままを認めて、それを含んだまま育成してく努力を「忠」という。
白川静さんの『孔子伝』の冒頭にあった、
孔子の人物像が重なりました。
こういう在り方の人は、さぞ慕われたことだろうと思います。
ありのままを認め、その上で真剣に道義を尽くそうと努力し続けている人。
痺れますね。
→其の家人に宜しくしてのち、以て國人を教うべし