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心照古教〜『大学』を考える〜【二六】

忠恕ちゅうじょ」を深掘る


今回は、【二五】にあった「恕」について深掘りしていきます。
「恕を内蔵していないと人は聞く耳を持たない」とはこれいかに。

身にぞうする所じょならずして、
これを人にさとす者は、未だ之れ有らざるなり。

「大学」

『論語』の里仁篇には、

「夫子の道は忠恕のみ」

とあり、
孔子の教えの眼目の一つは「恕」にあると言えるようです。

「恕」の意味
恕という文字は「如」プラス「心」です。
「如」とは、ごとし、そのまま、ながら、という文字である。
真如とか如如とかいう如は、
天ながら、道ながら、自然ながら、宇宙ながら、
そういう自然そのままを表す。「そのまま」と訳せばよい。
したがって造化、宇宙はたえざる創造であり、作用、運動でありますが、
如という字をまた、ゆく﹅﹅とも読む。
何故ゆく﹅﹅と読むか。
宇宙本体はたえざる創造変化活動であり、進行ですから、
そこでゆく﹅﹅と読む。その如が女篇に書いてあるのは、
女がまさに自然そのまま、造化を代表しているからであります。

この造化の如をそのままに行動するのが「如来」、
したがってこの如…即ち造化の本領はまず包容するということにある

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

この「如」に「したごころ」がつくとなれば、
「心のまま」ということになるんでしょうか。

「恕」はつまり親の心、母の心である。
これを表す仏教の言葉は慈悲の「悲」であります。
「身にぞうする所じょならずして、
これを人に喩さとす者は、未だ之れ有らざるなり。」
だから我々は「恕」である
包容力・慈悲心があって初めて人を諭すことができる

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

私なりに解釈すると、
自分の「心のまま」を知り、受け容れてこそ
「包容力・慈悲心」が生まれてくるということだと思います。

(ああ、わかる。それあるよな〜)とか
(私もその心理経験ある、しんどかった。この人も辛いだろうな)とか

そういう、
自分が把握している
自身の中の「人間だもの」の部分が多ければ多いほど、
他者にストーリーを見出して
共感したり、思いやりを発揮したりできるんではないかと思います。

無意識のうちでも、
自分ルールに自分を縛って自分を許せていないと、
「自分にも実現できてない理想像」と相反することをしている人に対して
「私は我慢してるのに、こいつなに甘ったれてんの?」
と勝手にジャッジをはじめてしまうから要注意。

この状態で、かつこらしょうが無いと、
「私は我慢してる」という謎のアプローチを始めて
ジャッジ&アプローチされた側にうざがられる
という負の連鎖が始まるんだと想像します。

「忠」の意味
いかなるものをも捨てないで、それを包容しておもむろに育成してゆく。
この育ててゆくという創造育成の努力を特に引き出して「忠」という
この忠は矛盾を止揚しようしてそれを進化させてゆくという文字です。
だから「忠恕のみ」というが、もっと簡約すれば「恕」一字に帰する。
忠は恕の中にある。しかし往々、「忠なれども恕ならざること」がある。
だから忠の中に恕があるとは限らない。

安岡正篤『人物を創る 人間学講話「大学」「小学」』

ありのままを認めて、それを含んだまま育成してく努力を「」という。
白川静さんの『孔子伝』の冒頭にあった、
孔子の人物像が重なりました。

孔子は神秘主義者たることを欲しなかった人である。
みずから光背を負うことを欲しなかった人である。
つねに弟子たちとともに行動し、弟子たちの目の前に自己のすべてをさらけ出しながら、「これ丘なり」(論語・述而)というをはばからぬ人であった
 ただ孔子は、たしかに理想主義者であった。
理想主義者であるゆえに、孔子はしばしば挫折して成功することはなかった。世に出てからの孔子は、ほとんど挫折と漂泊のうちにすごしている。
しかしそれでも、弟子たちはそのもとを離れることはなかった。

白川静『孔子伝』

こういう在り方の人は、さぞ慕われたことだろうと思います。
ありのままを認め、その上で真剣に道義を尽くそうと努力し続けている人。
痺れますね。

→其の家人に宜しくしてのち、以て國人を教うべし


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