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心照古教〜『大学』を考える〜【十六】
獨を慎む
本文
小人間居して不善を為し、至らざる所無し。
君子を見て后厭然として、
其の不善を揜いてその善を著す。
人の己を視ること、其の肺肝を見るが如く然り。
則ち何の益かあらん。此を中に誠あれば外に形わると謂う。
故に君子は、必ず其の獨を慎むなり。
曽子曰く、十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな。
富は屋を潤し、徳は身を潤す。
心廣く體胖かなり。
故に君子は必ず其の意を誠にす。
訳文(我流)
権威者の下について己が生き延びることばかり考えている人は、
ひまで他人の目が及ばないと(間居)、
ろくなことを考えず、どんな善からぬことでもやりかねない。
平生はいい気になっているから、勝手放題なことをやっているが、
一度君子と呼べる人と会うと、その内に蔵されている良心が働いて、
そのために自分が嫌になって、思わず自分の不善を隠して、それまで潜在させていた善を表に出すようになる。
人間は、自分のことはよくわからないが、
他人から見れば、肺や肝臓を見透かすように明らかだ。
だから、いくら表面を取り繕っても何にもならない。
これを、「内に誠があれば、それは形となって現れる」という。
だから君子は、独を慎んで、自分の「誠」を見つめるのである。
曾子は、
「衆目の見るところ、十人が十人まで指摘するところは厳粛なものがある。
いかに表面を取り繕っても隠しおおせるものではない」と言っている。
それは、家が富むとなんとなくその潤いがわかるように、
人間も内に徳を積むと、しっとりとした潤いを生じてくる
ということ。つまり「心ひろく、体ゆたか」になる。
だから君子は、「意を誠にする」工夫を怠ってはならないのである。
思うこと
獨りを慎む、というと
林尹夫さんの手記にあったことばが思い出されます。
五月十五日
片々たる友情にまつわることをやめ、孤独に沈潜しよう。
浮薄な虚飾を避け、根底的な実態の創造に努力しよう。
一人は寂しい。しかし誰とも交際しまい。
一人で立て籠ろう。ただ S 先生にだけはご指導を受けたい。
それから K 氏である。
それ以外は少なくとも、現在は無意味な交際である。
独りに徹しよう。
それに徹底することにより、普遍的な「あるもの」を把握してゆきたい。
十二月十五日
みずからを下げることが友情ではない。
友情とは、相互の上昇でなければならない。
上昇はすべての根本だ。低俗で退屈な交友よりは、充実した孤独を好む。
現在のぼくの孤独を、しっかり噛み締めて、そこに沈潜しよう。
これは深い意味を持つ孤独だ。独りでいること、此こそ生の根源だ。
「誠意」というのは、つまり「自分が自分を欺かないこと」。
「その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す」と『大学』にはあります。
「知」は、頭に刷り込まれた知識ではなく
自分に内蔵されている知恵をいうと思います。
その知恵を究めることが、「意を誠にするための工夫」だとすると、
人間関係の中で起こる出来事が自分を知る材料になるとはいえ
ちゃんとその出来事を消化するために自分を振り返る時間は必須になる。
→こう在たい姿「命」
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