心照古教〜『大学』を考える〜【三三】
君子の大道
本文
我流訳文
賢人と見てもこれを挙げて用いることができない、
また、挙げても挙げっぱなしで、
自分が先に立って一緒にやっていけないのは怠慢である。
(※命は「怠」「慢」などの文字だったのではという解釈があります)
不調和を生むほど器の小さい人を見ても
これを退けることができない、
また、仮に退けられても、僻地にまで追放できないのは過失である。
善を好み、悪を悪むのは人の天性だ。
君主の立場にあって、天邪鬼にも
人の悪むところを好んだり、人の好むところを悪めば、
これは天性に背くもので、禍害が身に及ぶことを免れないだろう。
このゆえに、天下を治める君子には大道(絜矩の道)がある。
この大道は、忠信の誠から出てくるものだが、
これに反して
驕り昂り節度を喪失すると、大道を失って国は滅ぶ。
思うところ
「義を見てせざるは勇なきなり」って言いますよね。
思っても思いっぱなしで実現に向けて行動しないなら、
その思いもあってないようなものなんだと思います。
「良い」「社会のためになる」と感じる対象と出会った時、
「応援になるアクションを起こす」
「自分のチャレンジの参考にする」といった
前向きな行動に繋げられるか、
ただ見過ごして
指を咥えて見ているだけになったり、
アラを探して批判するだけの
ただの傍観者で居続けるか
は、当人の「人生の岐路」にもなるんじゃないでしょうか。
反対に、迷惑行為に対しても、
ちゃんと「NO」と意思表示をできるか
黙って耐えることになるかで
大きく人生が変わってきます。
「天邪鬼」がなぜ「天邪鬼」な行動をするのかを想像してみると、
自分の周囲にあるものすべてを誰彼構わず「敵」と見做していて、
相手が嫌がる行為が「敵への攻撃」になると思っているから、
相手への攻撃になる行動を選ぼうとしているんだと推定してみます。
完全なる他人軸ですね。
いろんな煩悩に判断が曇った状態だと思います。
国のてっぺんにいる人がこんな状態で
みんなに影響を及ぼす判断をしてしまっては、
争いたくない人は離れるだろうし
反骨心のある人は反撃するだろうし
国自体はもちろん、
本人にいいことがないのは目に見えています。
でも、煩悩の雲にはいろんな種類があって、
行動の道標になる欲を研ぎ澄ませることは
人格修養を重ねないと難しい。
一生かけて修養して行くんだから、
当然、現場で判断が必要なときに修養具合が間に合わないこともある。
だから、
ここさえ押さえておけばいいという「型」(=絜矩の道)が
生まれてくるのかもなと思います。
その型を実践するには、
迂闊な「ありのままの俺でいい」
という心がけではどうしても成り立たない。
常に「これでよかったのか」と反問し続けられるくらいの、
細心の探究意欲がないと、
その「型」の実践が維持できないんだと思います。
→財を生ずるに大道あり
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