心照古教〜『大学』を考える〜【三四】
財を生ずるに大道あり
本文
我流訳文
およそ、一国の財政は一日も疎かにできないものだが、
財政を豊かに運営するためには大原則がある。
これを、食料生産面から見ると、
「農業人口を多くして、非生産的な消費人口を抑えること」。
工業面で見ると、
「物を製造する効率を上げ、
これを使用する時は大切に取り扱って消耗を緩やかにし、
長持ちさせるようにすること」。
そうすれば、一国の財政はつねに円滑に運用されるだろう。
仁者は財を私的に考えず、公共の利益を図るから、
国が栄えるだけでなく、我が身もまた安泰だ。
これに反して、
不仁者は利己心を発して財産を蓄積しようと焦り、
結果として財と心中してしまう。
人の上に立って天下を治める人が仁を好み民を愛すれば、
その誠意が天下に感応して、民もみな義を好むようになる。
また、上が仁を好み、民が義を好めば
何事も成就しないことはないのである。
従って、財貨も自然に集まって、国庫も豊かになり
為政者はその財貨を意のままに、
国政に供することができるようになる。
思うところ①
…公の資産を私しないために自分がしっかりする
私はこういう時、
「まず自分がしっかりしよう」と考えがちです。
まずは、
自分が触る権利のない資産に
手を出す必要がない状態でいるために
自分の生計が立つ目処を立てておく。
これが社会で生きる上での最低限のマナーだと
いう世界観で生きてきました。
個人的な預貯金のことを考えるにしても、
「たくさん稼いで、節約すれば家計に余裕が出てくる」
というのは真理だと思います。
いまは、収入面から見れば
宙ぶらりんに耐える未知の領域にいるので、
この話題に平然と「ワタシ、デキテル!」と言えない部分があるのですが…
思うところ②
…「裏・公私混同」という発想の転換で個を超越する
「仁者は財を私的に考えず、公共の利益を図るから、
国が栄えるだけでなく、我が身もまた安泰だ。」
公私混同は公のものを私用に着服する時にばかり使われるイメージですが、
「自分が形成している社会に好ましい循環を巡らせるために、
自分自身を資源と考えて、
自分の喜びをそのまま社会貢献に繋げる」
のも、公と私を区別してないと言えるんじゃないかと思っています。
我ながらまだるっこしい言い方してますね。
趣味= 仕事
お金を稼ぐことが目的のライスワークではなく、
ライフワークに喜びを見出している状態
というのが近いと思います。
このゾーンに入ると、
身体や経験そのものが
生きて行くために周囲に提供できる資産になっているから
あえて「お金」にこだわらないでいられるのかな
と思います。ここに行きたいんですよね。