心照古教〜『大学』を考える〜【十四】
切磋琢磨(二)
「切磋琢磨」と言えば、
先年お伺いした安田登先生の寺子屋での学びが思い出されます。
おら東京さ行って論語楽しんできただ
そこでお話にのぼった、『論語』の一節にこういうのがありました。
子貢は孔子に問うた。
「貧しくても権力にへつらわず、富を得ても驕らない
というのはいかが思われますか」
孔子はそれに応えて仰った。
「それもまあいいが、
貧しても道を楽しみ、富んでも好んで礼を尽くす人には及ばない」
その応えを受けて、子貢は得心して言った。
「ああ、それが切磋琢磨なんですね」
孔子はその言葉に喜んだ。
「子貢、そのとおりだ。
一を聞いて二を知ることができると、こういうやりとりができるんだよ」
「切」ることが手入れになるのは骨器、
「磋」することが手入れになるのは象牙、
「琢」することが手入れになるのは玉、
「磨」することが手入れになるのは石。
切磋琢磨は、現物(すでに出来上がっているもの)に手を加えるということ。
つまり、手入れをするには一人ひとりに合うやり方を選ぶ必要があり、道具を間違えればむしろ大惨事になる。
型の方に人間を抑え込もうとするのは本末転倒ということですね。
人に何かを教えようとする時、
「教えやすい」「扱いやすい」ほうが“良い”
というノイズがかることがあると思います。
「教える対象が育つ」ことが目的のはずなのに、
いつの間にか主眼が、
「教える側がコントロールできる」方に傾いている…
君子は、
この「型」に抑え付けられて形を変えられているのではなく、
自分本来の形を研ぎ澄ませている人を言うんだと思います。
「父母未生以前の本来の面目は何か」
「汝の足下を掘れ、そこに泉湧く」
「自分の鶴嘴で鉱脈を掘り当てる」
これらもまた、
「明徳を明らかにする」とあい通じる言葉なんじゃないでしょうか。
青々と生い茂る竹は、それぞれが真っ直ぐに伸びている。
よその事にいらぬ気を遣って自分のことをしっかりしていないと、
真っ直ぐ伸びることもままなりませんから、
その堂々たる風貌そのものが、彼らの自己修養の証になっている。
そういう立派な竹が集まっているのは、
そこにある一本一本が、
互いの領域を侵さず、自分の成長に専心しながらも
それぞれの成長になることを助け合っているからではないか
…と、ここで紹介された『詩経』の一節を勝手に解釈してみます。