其の家人に宜しくしてのち、以て國人を教うべし。
本文
我流訳文
詩経の周南桃夭篇に、
「みずみずしく葉が生い茂り美しく咲いている桃の花のように教養が豊かに成長した娘が嫁いで行き、その家の人とよく調和する」
とある。
このように婚家の人々と和やかに調和してはじめて、
国民を教えることができる。
詩経の小雅蓼瀟篇に
「兄たるによろしく、弟たるによろしい」
とあるように、人の上に立つ君子は、
まず兄弟との調和を実践した上でこそ、
国人を教え導いていく。
詩経の曹風鳲鳩篇には、
「君子の行為が人の道に適って、自ら周辺四方の国を正す」
とある。
つまり、君主が家の中で良い父子兄弟として振る舞ううちに、
民がこれを手本にするようになるのである。
これを、「國を治むるには、其の家を齊うるに在り」
という。
思うところ
『大学』は、国を率いる政治家の心得を説いた書ですが、
私自身が素読を始めたのは、
せっかく教材が入手できる時代になったのだから
自分に教育を施してみたいと思い立ったのがきっかけでした。
人の上に立つつもりがなくても、
「自分の人生の主人」という意味では
万人が…つまり、私も「君主」と言っていいんじゃないか
と思ったからです。
戦後に君子教育がなされなくなったのは
君子が「兵士」になり得ないからで、
国の上層が、「素直に消費される兵士」ばかりを求めたために
廃れたのだと、何かの本で読んだのを思い出しました。
なんの本だったっけなあと検索したところ、
思いがけぬ収穫を得ました。(本の正体への関心は霧散しました)
自分の生きづらさになっていて、
これバグだよなあと感じている
「率先して相手の下手に出ようとする」傾向について
言及されている文章を見つけたんです。
発言者は、…内田樹先生です。
彼の解説を読むと腑に落ちて穏やかな気持ちになるので好きです。
自分主体で学ばなきゃ、
生存不能なサイクルに呑み込まれるという切迫感は
ここから来るのかもしれません。
自分が学ぶ必要を実感している対象に身を投じるのは、
自然な情動ですよね。
→天下を平らかにするには、