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心照古教〜『大学』を考える〜【十五】
相手の「神性」に訴える在り方
『大学』本文
子曰く、訟を聴くこと吾猶人のごとくなり。必ずや訟無からしめんかと。
情無き者は、其の辭を盡すを得ず。大いに民の志を畏れしむ。
此を本を知ると謂う。
此を本を知ると謂う。
此を知の至りと謂うなり。
所謂其の意を誠にすとは、自ら欺くなきなり。
悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。
此を之れ自謙と謂う。
故に君子は、必ず其の獨を慎むなり。
訳文(我流)
孔子が仰るには、
「訴訟を聴くことは、私も別に人と変わったことはない。
ただ、世の中から訴訟ごとを根絶させたいというのが本来の願いだ」
(そのためには、為政者自ら「誠」をもって臨むことだ。そうすれば、)
情のない者も、
白を黒と言いくるめるような虚偽の弁辞を尽くすことができなくなり、
人々も畏れ謹んで自然に訴訟などしないようになる。
やましさのある誤魔化しや、利己心からくる狡猾な真似ができなくなる。
これを「本を知る」という。「知の至り」という。
経文に言う「意を誠にす」とは、
「自らが自分の心を欺かない」ということだ。
それは悪臭を憎み、美しい色を好むようなもので、
人間に備わった自然の情である。
そして、それは自分に対して正直な感情であるから
「自ら謙る(満足する)」のである。
そこで、立派な人物は必ず自分一人を慎む。
誰が見ていなくても、誰が聞いていなくても、自分自身を慎んでいく。
思うところ
「(皆が尊敬する人が)誠を尽くせば自ずと皆も応えてくれる」
自分が敬意を抱いている相手がきちんとしているのに、
自分ばかりいい加減なことはできない、
という感覚はあると思います。
ただ、ここでほわんほわんと思い浮かんだのは
「正直者が馬鹿を見る」という言葉。
これについて深掘りしてみると、
「私は誠を尽くした(と信じている)のに、
向こうが(自分の期待通りの仕方で)応えてくれなかった」
という恨み言からくるんじゃなかろうかと想像されます。
あと、たまに
「(自分は傍観者として)そういう場面を多く見てきたから、
損をする正直者サイドに行く奴は馬鹿だと思っている」
という自己弁護のパターンも耳にします。
私自身、
競争社会で発生する類の
思考誘導や印象操作、
他者を陥れようとしたり、
成り代わろうとしたりする
権謀術数が身のまわりに起きた時は、とても不愉快でした。
それをする姿を見せられた人間にも、それが起こる場面にも、
もう二度と遭いたくない。
それでも、
私がその時「誠を尽くした」気でいても、
私にも私のノイズがあり、ジャッジがあり、
煩悩の雲があったんだと、
後になって気づいたと言う学びがあります。
全く異なる理で動いている相手には、
「誠」を求めようとしたところで、
それが「自分が求める形」でないのは
当然のことなんじゃないかとも思えます。
そのことにこだわっているうちはまだ、
「勝敗の世界」に身を浸している状態なのかもしれない。
ただ、
相手の「神性」に問いかけるには、
そもそも自分自身がちゃんと
自分の「神性」につながっていないとできない
というのは、確かだと思います。
→獨りを慎む
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