allegoria が「人生論」と訳されている
ある必要に迫られて「アレゴリア」という言葉の意味を調べていましたら、あちこちに「言葉の意味探し」が派生して、外堀を埋めてゆくように意味が見えてきます。
そして、「アレゴリア」の状況であると人生は愉しいかもと思い至りました。
まず「アレゴリア」をGoogleで検索すると、トップにはゲランのフレグランスが出てきました。
おお、「地球の魅力を讃える」とかあって、素敵な言葉であることが予想されてきます。
ゲランの公式HPに引き続いて、ちゃんとこうした「言葉の」説明もありました。
言葉の意味も、ゲランのフレグランスのコンセプトと同じ方向の意味のようです。
さらに、アレゴリアはイタリア語で”allegoria”。
Googleで検索しましたら、こういう説明がありました。
むむむ。。
Allegoriaの説明には『熱意』や『生きる喜び』とかが書かれていないじゃないですか。
それに「寓意」というのがよくわからない。。
アレゴリアを検索するとアレゴリーが一緒に出てくるのですが、どうもallegoriaは、英語では allegory と言うようです。
そこで、"allegoria allegory" で検索すると語源の説明が出てきました。
「寓意」とか「別の」という意味と「熱意」や「生きる喜び」が一気に繋がりにくいので、「アレグラ」も調べてみましたら、アレルギー専用鼻炎薬や箱根登山電車 新型車両の名前ばかりが出てきました。
とほほ。と思いつつなんとか「アレグラ」はALLEGRAと綴ることが判明。
これを手掛かりに検索しましたら「Weblio 辞書 > 英和辞典・和英辞典 > 英和がん用語辞書」の中に薬の名前としてのAllegraがありました。
なるほど、イタリア語の allegraは 英語の“cheerful”という意味だと判明。
元気がいいとか快活という感じは「なにかが突き出た、飛び出す感じ」なのですね。
確かに引っ込む感じよりも元気が良さそう。
これだと、アレグラは「熱意」や「生きる喜び」という意味に繋がりますね。
ちょっと広げすぎましたので、要約すると
アレゴリア
1)(伊語)allegoria 寓意、寓意像の意。語源は「別のものを語る」という意味
2)(伊語) allegra からの派生「熱意」「生きる喜び」
3)(英語)allegory 語源は古典ギリシア語の動詞 allegorein(allos「別の」とagoreuein「公の 場で話す」から合成)
さらにallegoryは辞書では
なるほど、allegoria、allegory、allegraに共通する語幹は「alleg*r」であり、印欧語根「al」と「ger」が合わさった「感じ」のようです。
「al」…を越えて/向こうに/他の/別の
+
「ger」一つに(一ヶ所に)集めること
とはどんなイメージ(感じ)なのでしょう。
ううう。まだピンときません。
となると、日本語で「寓意」と訳されている方面から攻めてみます。
ここで、なんとか繋がってきました。
「ある意味」・・・隠れているけど話者の内側「ここ」にあること
「別の物事」・・・関係がないように見える「よそ」のこと
つまり「託して表す」というのは、、、
「ここ」と「よそ」、もしくは「当」と「別」を一緒にする感じでしょうか。
つまり、「ある意味」に「別の物事」を重ねる(一つに集める)をしているということかも。
別の物事を持ち出して話しながら、隠している意味をほのめかすのですね。
そして「寓」という言葉を手元の国語辞典で調べてみましたらこうありました。
そうか。「ことよせる」とは別のところにある事を寄せてくる(事寄せる)ということ。
もしかして「かこつける」というのは「カッコつける」ではなくて「過去付ける」で、過去の話を持ち出してくることなのでしょうか。
でも「寓意」や「寓話」をすることに「熱意」や「生きる喜び」があるのでしょうか。。まだ腑に落ちません。
そこで、ここなら。と
「アレゴリア」を松岡正剛の千夜千冊を検索してみましたら、
ありました。
あった「アレゴリア(人生論)」!
これこそ「熱意」や「生きる喜び」だ!と喜び勇んで、「アレゴリア 人生論 ダヴィンチ」とGoogleで検索しても、ちっともそうしたことがヒットしないのです。
それに千夜千冊にも、『アレゴリア(人生論)』という記述は千夜千冊の文中ではなくて、Keywordの中にあるだけなんです。。。
仕方がないので、図書館で借りました。
ダ・ヴィンチは「天才すぎて手に負えない」と勝手に思っていた私。
以前にも読もうとして、結局返却してしまったことを思い出しました。
でも、今だからでしょうか、訳者による上巻の冒頭の文章がすらすら入ってくるんです。
フィレンチェの郊外で自然児(私生児)として生まれ、ミラノで長く活躍したこと、フランス王室がパトロンになったこととか、ワクワクして読み進められる。
モナリザがルーブル美術館にあるのもそのせい?とか思ったり、この本やっぱり「買ったほうがいいかも」とか思いながら、「アレゴリア(人生論)」の箇所を探します。
そして上巻の『人生論』に、ありました。
ダ・ヴィンチの描いたスケッチの写真の説明書きにありました。
「アレゴリア」を「人生論」としたのは、この著者のようです。
それで、
ああ、やっぱり買おうと思ってAmazonで検索していたら下巻のレビューに
とあったんです。
そうかと思って下巻の解説を読んでみたら、本当にすごい。
ダ・ヴィンチがどんなことをどんな風にしてたのかが、人肌を感じるように伝わってきます。
そして、最後に訳者がこの翻訳のことを書いているところで、泣いてしまいました。
訳者の杉浦明平のこの解説によると、この手記の翻訳にとりかかったのは1940年ごろだそうで、確かに戦前の翻訳本の文体は少々堅苦しい。
この訳本が出版されたのはもう半世紀以上も前ですが、旧字体が所々あることが気にならないほど読みやすいのです。
ダヴィンチの人柄や肌の温もりを感じるのは、訳者のこうした思いがあったからかと思いが走って、同時にアレゴリアが人生論で熱情や生きる喜びであることも氷解してしまって、泣いてしまいました。
どんどん(別の)新しいことが湧き出てて、自分にやってくる。
これこそが、アレゴリアの意味で、ダヴィンチの生き方そのものだったとすれば、ダヴィンチがallegoriaと書いているところは彼の「人生論」だと、杉浦明平は考え抜いたのでしょう。
可能性に満ちた別のことがたくさんある状態。彼はきっといつもワクワクしていたことでしょう。(他者の理解は得にくいかもしれないけど)
そして【寓】という字の一番古い意味「目をとめる。目をつける。」という意味が、ここで繋がってきました。これがないと「ことよせ」もできないし「いい住まいも見つけられない」。
ダ・ヴィンチは「目のつけどころ」がとにかくダントツだったのです。
とにかくアンテナが高く高くトンがってた。
(おお、cheerfulの印欧語根の「突き出た形をしたもの」という意味も回収できました!)
そしてもう一人、誰も見たことのない珍しいことをかけがえのないことと言ったのが世阿弥。
『風姿花伝』の中で彼がいっている「花とはめずらしきことなり」とは、確実にダ・ヴィンチのアレゴリアに通じている。
とういうわけで、Amazonで手記の上下巻と、合わせて杉浦明平のこの本も注文してしまいました。
そして、スターバックスリザーブの豆もミラノつながりで買ってしまった。
同じブレンドの豆を一つは浅煎りで一つは深煎りで。
もちろんブロンドの浅煎りはSOLE(太陽)で、ダークの深煎りはLUNA(月)。50gづつ入っています。
同じ豆が別物になって一緒になってるなんて、アレゴリアっぽい。
それにしてもダ・ヴィンチが、フィレンチェ生まれでミラノで仕事してフランスで眠ってるなんて、なんてなんて。。。
そうなんです。
ミラノはPRADAで、フィレンチェはGUCCIで花という意味
なんです。
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