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私のこれまでが全部言語化されている本に出会ってしまった

「まともがゆれる」 常識をやめる「スウィング」の実験
木ノ戸昌幸 朝日新聞出版社
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きっかけは、大好きなノンフィクションライターである川内さんの新刊「目が見えない白鳥さんとアートを見にゆく」を読んだこと。ここに、「ギリギリアウトを狙っていく」というモットーとともに木ノ戸さんが運営するNPO法人Swingのゴミブルーはじめいくつかの"作品”が紹介されていて、ズキュンときた。

素晴らしすぎるモットー。素晴らしすぎる取り組みの数々。なんだここは!スウィングってなんだ!ブランコか!(絶対違う)

川内さんの本を読み終わると同時にamazonを開いて「まともがゆれる」を購入。読みすすめるにつれ、どんどん心拍数が上がっていった。自分がこれまでたどってきた思考の数々が、全てワンランク上の解体方法で言語化されているではないか。

「木ノ戸さん、あなたは私か?」(ちゃう)

本を読みながら何度そう呼びかけたことだろう。(だから、ちゃう)
読み終わる頃にはびっしりと付箋をはりつけ、中は赤線だらけになっていた。

本当はみんなにこの本をまるっと一冊全部読んでほしいけど、特に自分のこれまでの思考とリンクしていた部分を取り上げて、「ほら、ほらね!私が考えてたことはこういうことなんだよ!」って読者のみなさんに言いたい。あくまでも私の承認欲求のためのアレです。皆さんよろしくおねがいします。

1.アートの考え方

数年前から、アートについて考えていた。社会が人の幸せや生き方を規定する力が薄まった現代社会において、それぞれの個人の中にあるアートのようなものは、「健康」や「幸せ」を考える上でとても重要なのではないかという仮説を立てて、いろんな思考を巡らせてきた。

「生きるためにどうしても必要ではないけれど、あったら豊かになるもの」ということこそが「アート」なのかもしれない。(中略)ある人が持っている「アート」は、いわばその人が生きていく上で柱となる部分を支えるものなる。

今年はまった「超相対性理論」という大好きなポッドキャストがあるんだけど、そこで株式会社コテンの深井さんが(知り合いみたいに紹介しているけど雲の上の上の上の憧れの人物)「僕らは人生というパーティーに招かれている。僕たちにとって大事なのは、パーティを楽しむためのスキルでありリテラシーなんじゃないか。」といっていて、これは個人的にこのアートについての仮説の話とすごくフィットするフレーズだと感じた。

アートを意識して生きることは、自分の健康や幸せがどんなものかを意識して生きることと同じだと思う。(中略)それを「自覚し、意識して生きること」は、人間が人間性をもって幸せに健康的に生きるために、ほとんど不可欠なことなのではないか。

第二次世界大戦以降、社会は我々の主体性に委ねられるようになって、我々は人生を遊ぶためのリテラシーが必要になっているというのが深井さんの話。一方で、同じように生き方を個人に委ねられる時代において、自分の生き方の軸となるようなアートがより大切になってくるはずだというのが私がたどり着いた結論である。同時に、アートは生き様そのものだとしたら、誰かに評価されるようなものでもない、とも考えた。

「まともがゆれる」の中で、木ノ戸さんはこう書いている。

「表現されたもの」に優劣がつくことはあるだろうが、「表現すること」自体に優劣などない。(中略)どれだけしょうもなくてもいいから「これが私の表現!」と言えるものを身につけることは、人ひとりが生きてゆく上で大きな支えになる。(中略)自分や他者の生き様そのものをかけがえのない表現として見つめられたならば、目の前に広がる世界は、さっきより少し色鮮やかに、優しく映る気がする。
私的な(そして多くの場合、非常に切実な)問題や美意識なりを、「普遍性」「全体性」を有するものに高めること、その過程にこそアートはあるのではないか、あるいはそうした過程をこそアートと呼ぶのではないか、そんなふうに考えている。

なんて簡潔でわかりやすくて、水も滴るいい表現なんだ。

私があーだこーだと長い時間をかけて長ったらしい言葉でつづったヤツと同じことを、100億倍くらいわかりやすくスパッと言ってくれている。ありがとう木ノ戸さん。

ね?ほらね?私が言いたかったことってこれなんですよ。

2.仕事って?稼ぐってなに?

長いこと、主婦業をしていた。当然ながら夫はお金を稼ぐ仕事をして社会の中で評価されてきたわけだが、それゆえに感じる家庭内でのパワーバランスにいつも居心地の悪さを感じていた。家事や育児をしながら、例えお金にならないことでも、私は魂込めてやりたいことをやりたかった。「仕事」って一体なんだろう、という思いから、今年は初めてちゃんと会社員になって、お給料をもらうということを実験的に始めてみた。

木ノ戸さんは「まともがゆれる」の中で、「仕事とは?」という私の終わりなき探求の旅のヒントをくれた。

仕事とは「人や社会に対して働きかけること」(中略)お金に変えることのできない小さな喜びたちが、一過性のお祭り騒ぎではなく、あくまで日常の延長線上に、程よく流れている。

さらに、障害福祉業界で言われる「一般就労」と「福祉的就労」について、長年一般就労をしていた方が数年前に福祉的就労につき、ほとんど誰とも口をきかなかった状況から激変し、今ではたくさんの友達ができ、くだらない冗談しか言わないようなキャラクターになったことを引き合いに出し、次のように言う。

福祉的就労の場にやってきて、彼の収入は激減したけれど彼が得たものの大きさは効率やお金といった尺度では決して測り得ないものであり、そうした価値がこの世の中に確実にあるのだということをはっきりと教えてくれる。お金とは何なのだろう?働くとは何なのだろう?そして人が生きることとは何なのだろう?(中略)「昔みたいに稼げる仕事に就けるとしたらどうですか?」と尋ねると、「いやあ、もう無理やろ。」と笑顔で答える。「何が無理なんですか?」「そりゃあ、まあ、人間関係」。気が遠くなるほど長い間孤独を余儀なくされ、人間関係を持つことすら前提になかった男のこの答えに、僕はうまく言葉を継ぐことができず、「なるほどね・・・・」と曖昧に返すしかなかったのである。

さあどうだ。ほれどうや。

人や社会に働きかけることを通じて、お金には代えがたい喜びを得ることが仕事なのだとしたら、やっぱりお金の有無は仕事の価値にあんまり関係ないのではないか。

(もちろん子供が4人いて、今年は車椅子の第三子もすごしやすいバリアフリーの住宅も建築予定の我が家にとって、お金もとっても大事なんだけど。)

なんかすごく後押しされたような、肯定してもらったような気がして、すごく嬉しかったんです。私。木ノ戸さん、ありがとう。

そう考えると、やっぱりハルにも「仕事」は必要だな、と思うのだ。「仕事」を通じてちゃんと社会に働きかけることができるようになることは、もしかしたらハルのきょうだいたちにとっても大事な事かもしれないぞ。

ハルに合った「仕事」はなんだろう。それをちゃんと一緒に考えていくことは、親としての大事な使命かもしれない。ハル、障害児だからって仕事をしなくていいなんていう言い訳はきかないぜ。いい仕事、みつけような。

3.「いつも何かをしなければいけない感じ」、脱出

この話は、ものすごーく胸にささった。ぐさっと。これ、マジでな。私やん。「いつも何かをしなければいけない感じ」どころか、なんだったら「いつも子どもになにか注意をしていなければいけない感じ」とか「いつもアウトプットかインプットをしていなければいけない感じ」とかも持っている。

通勤時間はずっとポッドキャストかラジオを聞いてたいし、時間ができたらスマホ見たりPC開いてなんかテキスト打ったりしてたい。なんにも聞かないしなんにも見ない時間があったっていいはずなのに、私は一体なにを恐れて何に脅迫されているのか、いつも目か耳か手を使っていたい病気なのかも知らん。何もしない無駄な時間をゴージャスに過ごすことができない私は、かわいそうなんではないか、と本の中でゴージャスな無駄をすごす”かなえさん”を見て心底羨ましくなった。

誰かによって都合よく作られた「べき」やら「ねば」やらに囚われ、思考が、行動が萎縮していく。何かもっと大切なことがなおざりにされているような気がする。

誰が決めたかわからないルールに縛られたり、自分で自分の首を締めている、そんな人はもしかしたら私以外にも現代社会にはたくさんいるのかもしれない。ときにはあらゆる「べき」や「ねば」から開放されて、おもいきりゴージャスに無意味でゆったりした時間を過ごしたって、いいじゃない。

4.見失ってしまった三つ子の魂を取り戻す話

スイングを設立してから12年の歩みの中で、多くの人が「驚くべきいい感じの変貌」を遂げた、というけれど、それは実は、「驚くべきいい感じの変貌 」ではなくて、本来の混じりけのない、素っ裸の自分へと還っているのではないかという木ノ戸さんの洞察。それはまるで、"乾燥してしまったワカメが水で戻ってゆくような、見失ってしまった三つ子の魂を取りもどうすような感じ”と本の中で表現しいる。

これがもう、べらぼうに、わかる!!!

まさに「取り戻した」という表現を使って以前記事を書いたので紹介させてほしい。

私もまさに、乾燥して何年も台所の片隅で放置され、元の姿がどんなだったか長いこと忘れていたワカメみたいな感じだった。(そんなワカメもう戻して食べる気も失せるかもしれんが)


というわけで、付箋だらけだから当然なんだけど、この本の共感ポイントを上げ始めたら切りがない。とにかく楽しくすらすら読めてしまうのでぜひ手にとって読んでほしいのだけれど、私がこれまで書いてきた節目節目のnoteの記事で言いたかったことが全部この本に詰まっていた気がして、私はとにかく嬉しかったし、なんか力が湧いた。(なんだったらもはやnote活用以前に書いた記事にも、リンクするものがたくさんある。)

ほらね、私がいいたかったこと、こういうことなんだよ!

おんなじようなことを遥かに高レベルでしかも行動とユーモアを伴って力強く考えている人がいて、すごく嬉しかった。

私も、やるぞ。(ぜんぜん具体像はないけれど!)

そんなわけで、グッバイ2021。ハロー2022。


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