背反
自分が消えたいという気持ちと、生きたいという気持ちと、それから大好きな人に囲まれていて幸せだという気持ちは全部本当で、全部矛盾せずに同居している。
傷ついた痛みと、それはそうとして自業自得かもしれないという事実もまた両立していいし、ただそこにあるだけ。
そういう分別がなんとか出来るようになったのは多分二十歳は過ぎてからで、これが歳不相応なのか相応かは知らないけど、これが分別できていない頃は辛かった。
自分が悪いから傷ついても我慢しないといけないのだと思っていたし、だから消えたいし、でも自分で消えられない弱さをズルいとも思っていた。
ズルいといえばズルいのかもしれないけど。
けれど、こんなバラバラの材料を選別などせず、大好きなクリームシチューの中に全部全部ぶち込んで食べてしまうのだってなんの罪でもないし、罰を受ける必要もない。
自罰の義務だってない。
だから泣かなくていいし、泣いてもいいし、好きにしたらいいんじゃない?って思う。
笑ってもいいし、見過ごしてもいいし。
大人はたくさんの我慢があるけど、好きなことをしてもいい。本当は生まれた時からずっとそうだけども。
私は今何故かとても悲しい。
といっても、何故なんてとぼけているが、本当は何を思い出して、何に傷ついて泣いているのか、理解している。
認めることがただ辛いので、知らないフリをしているだけだ。
何故かすごく悲しいけど、私は平均的に見れば幸運だし幸せだし、やっぱり少し恵まれている。
大切な家族や友達がいるし、ごはんは美味しいし、夜はクーラーが効いていてちょっと寒いくらい気持ちいい。
いくつか燃やした歴史はあるし、何度も消えたくなった。
それは今もあまり変わらないみたいなところがあるけれど、私は色んなものに許され、たまたま生きている。きっと幸せ。
されど、消えたい私はずっと耳元にいるし、幸せと悲しい気持ちが矛盾せずにそこにいるのだ。
我儘で最低かもしれない。ごめんなさい。
そんなふうに、私は消えたいし生きていたいし、だからなんとなく社会で白線の向こう側でギリギリ立っている。
どんなふうに立っていても、最後まで立ってる奴が勝ちなのだ。知らんけど。
今日は楽しいはずなのに、どこか妙に悲しくて寂しいものだから、こんなくだらない話を書いた。
生き恥を残す愚か者なんです。
恥ずかしくなったら消します。それだけ。