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6歳女の子「せかいは朝からはじまったんですか?」にどう答える? UTCPセンター長 梶谷真司先生に聞いてみた
ことし7月――。
例年通りのうだるような夏の真ん中で泳いでいると、ひとつのツイートが目に飛び込んだ。
まるでカメラのフラッシュライトみたいにまばゆい光を放ち、瞳を焼きつけたまま、私を離さなかった。
この質問が投げかけられたのは、NHKラジオ第1放送の人気番組《夏休み子ども科学電話相談》である。
質問者の女の子は当時6歳。「どうしてそう思ったの?」と出演者が問うと、彼女は「お空をみて思ったの」と小さく答えた。
一連の微笑ましいやり取りは、たちまち多くの人の琴線をくすぐった。「素敵だ」と何度もときめいては溺れかけ、まるで温かいスープを飲んでいる時のように心が平和になるのだった。
けれど、ハッとした。
“私だったら”どう答えればいいのだろう??
がっかりするほど、途端に分からなくなった。
分からないならプロに聞いてみよう
掴みどころがないものを、つまびらかにするのは難しい。
誰かが、哲学的と言えば「うんうん、私もそう思う」と即座にあやかろうとする。普段から本当に何も考えていないことが明瞭になって愕然としたので、今回は思い切って、哲学のプロに聞いてみることに。
この捉えどころのない難問に対し専門家はどう答えを導き出すのか。
あやかりたい、まじで。
こころよく取材に応じてくれたのは、梶谷真司先生。
梶谷 真司(かじたに しんじ)先生
東京大学大学院総合文化研究科 教授。共生のための国際哲学研究センター(UTCP)のセンター長を務める。
著書《考えるとはどういうことか -0歳から100歳までの哲学入門-》にて哲学対話による活動を綴り、本書では『哲学対話とは問い、考え、語り、聞くこと』と記している。
さっそく気になっていた質問を、いざ、正面からぶつけてみた。
考えることで何が得られるか
インタビューアー(以下省略):
早速ですが、哲学的に考えると「世界は朝から始まったんですか」?
梶谷先生(以下省略):
分からないよねぇ。
ええぇ……?
僕には分からんよ。
哲学的である/哲学的ではないという回答を期待していたのですが……。
そもそもどうして「世界は朝から始まったのか?」が気になるの?
僕はむしろそこに興味があるね。
すなおに素敵だなって思ったんです。
「素敵な問いだな」って思ったのはどうしてだろう?
答えが分からないにしても、そのフレーズからどんなことを感じたんだろう?
答えじゃなくて、ですか。
そう。例えばさ、「いま何時?」という台詞はときめかないよね。「今日宿題なんだった?」も別にときめかないよね。
ときめいた、というのであれば「世界は朝から始まったか?」という問い自体に面白さがあると思うんだよね。
じゃあ、あなたは、その問いに何故ときめいたんだと思う?
そうですね……質問者の女の子の「空を見て思った」を聞いたとき2つのことが頭に浮かんだのですが……。って、これは私のとりとめもない話ですよ、先生の解釈を聞かせてください。
とりあえずさ、話してみよう。あなたがそこからどんなことを考えるのかがポイントだから。
女の子の「空を見て思った」を聞いたとき、まず2つのことが気になりました。ひとつは、彼女はどんな気持ちで空を見ていたのかな、と。もうひとつは、彼女には何か願望があるんじゃないか、ということです。
なるほど? どういうことかな?
問いの直前には必ず感情があると思うんです。例えば、首の長いキリンや小さなアリを見て「カッコイイ」とか「ヘンなの」とか、心が揺さぶられて、何かしらの感情があってから「どうしてなんだろう?」となる。だから朝の空を見たとき、女の子には感情があったはずで……その感情が気になるな、と。
一方で、問い自体は“願望”や“意見”の現われなのかなと思います。「あの子はどうしてモテるのだろう」という問いがあったとして、その場合、「私はモテたい」願望と紙一重ですよね。もしくは「どうしてモテるの?いや、私の方がモテる」など反語的な意見が存在する。
要するに「世界は朝から始まったの?」には、それなりの背景や理由があって、もしかしたら「朝が始まってほしい」「朝が早くきて欲しい」と女の子は願ったのではないでしょうか。なぜなら私自身、幼い頃、おばけや妖怪が出てくる話を聞いて眠れない夜がこわかったです。友だちと遊んだとき、日が暮れたあとのさよならは、特別さびしいものに思えたりしました。なので明るくなった空を眺め、ホッとひと安心した女の子を咄嗟に想像したんですよね。そんな子供の無垢な感情や願望を連想して、こころ惹かれたのかもしれません。
ふむふむ。なるほど、問いの理由は願望で、つまり「世界は朝から始まってほしい」という願いだと……。
じゃあ、始まったのが「朝」だからときめいたってことだよね?どうして?
(うっ。突き詰めるなぁ。)
朝って、眠れない夜が過ぎて、これから楽しそうなことが起きる感じ、ですよね。朝は、まばゆい明日がやって来るというイメージです。
ふむ……。続けてみて。
けれど大人になればなるほど……朝はつらくて、まばゆい朝には程遠い気がします。くたびれた日の終いには、気が滅入りがちで「明日なんて来なくていい」と願うこともあります。なのに、どんなことがあっても、そしらぬ顔で、明日はしっかりやって来る。どうせ迎えるならば、決して満員電車に揺らされるばかりの朝じゃなくて、ちゃんと家族そろって食卓を囲んでーー天気の良い日には遠くの富士山を眺めたり、寒い日には二杯目のコーヒーを入れたり、能率とか合理性とか一切考えない世界で、そんな風に朝が始まってほしい…………あれ?いつの間にか私の、個人的な願望にすり替わってますね。本筋から話がだいぶ逸れてしまいました……。
いいねえ、話がだんだん込みいって深みを増してきましたね。面白いじゃないですか。
もともとの「世界は朝から始まったのか?」という問い、最初はただの言葉の羅列にすぎなかったよね。
でも今、違う意味で哲学っぽさが出ている。別の話をしながら「明日」という異なる言葉で、女の子の問いを自分なりに表現して、受けとめている。
朝とは、一日の始まりで、「明日」だと個人的に解釈していました。
実は、問いに対して考えていった先の言葉のほうがずっと本質的で、哲学的だったりするんだよね。
そうか、理想的な明日の始まりを、私はいつも心のどこかで願っているのかもしれないですね……話していてそう気づきました。子供の頃は早く朝にならないかな、と思える日が多かった。けれど今ではすっかり「明日」を憂いていて、昔とギャップがあります。だから女の子の「朝から始まったの?」という問いが、さらにギャップを加速させて、私には妙にまぶしく思えたのかもしれません。
本当は、かけがえのない明日を過ごしたいーー今あなた自身の答えに、かなり近づくことはできたんじゃないかな。
正直ね、「世界は朝から始まったのか?」が本当に哲学的かどうか僕には分からなかった。
哲学者が問いを哲学的に読み込むことは勿論できる。でも、各人がなぜその問いに「ときめいた」のかは、ちゃんと聞いて、突き詰めていかないと。その人にとって何が大事で何が問題かよく分からないままに答えても意味がない。
相手が何を不思議に思っているのか、何を知ろうとしているのか。見極めてから考えたり答えたりするということですね。
そうそう。
ところで、朝が明日っていうのは分かったけれどセカイとは何かな?
あぁ、だめです、これ以上考えると頭がパンクしそう(笑)
(笑)
ときめいたのは、つまり、私の心が理想的な明日を期待していたから。それを小さな女の子の質問にかさねていた、と。
そうだね。でも例えばだけど、6歳の女の子じゃなくて、仮に悪ガキが「セカイってさぁ~」と言ったらどう思っただろう。クソばばぁって普段から言っちゃうような男の子とか。もしくは50歳のおっさんが「世界ってね……」とつぶやいていたら、今ほど気に留めるだろうか?
ふむ。今ほど気に留めないですよね、きっと。
最初にあなたから質問を受けたとき、「なぜときめいたのか?」ではなく、「それおっさんが言っていてもときめいた?」と聞いてみようかと思ったんだよね。同じ事柄でも、いろいろな角度で問いを立てたり、問いを返すことができるんだ。
"哲学的な問い方"とは
あらゆる角度からの問いが考えられる、と。
質問の仕方によって、思考の進み方が変わるんだよね。
例えば、「幸せとは何か?」という問いがあったとするよね。「幸せであることが望ましい」という前提で話を進めることもできるし、「そもそも幸せにならないといけないのか?」という切り口もあるんだ。僕は、幸せって何でしょうかと聞かれれば「幸せじゃないといけませんか?」と問い返すときもある。
相手にとって何が問題で、何を知りたいのか。それが大事だから、質問もよく考える必要がある。
相手の本質を見極めるのは結構難しいですよね。先生はしつこい問い詰め方……問い方が絶妙だなと思いましたが、なにか意識されているんでしょうか?
物事の“哲学的な問い方”というのがあって、これは難しいんだけど、とりあえず立ち止まらずに問い続ける。
止まってしまったら問いを立て直したりして、問いを発展させる。
まずは思考を停止させない、ということでしょうか。
そう。子供だったら、問いの理由を一緒に探してあげることもひとつの手かもしれない。
まぁ、僕だったら泣かせるまで問い詰めちゃうかもしれないけれど。
「空を見て思った」と言われれば、それってどんな空だったのかな? 晴れてたのかな? 曇ってたの? 何時ごろ?ちなみに具体的に空を見たわけじゃなくて、映像だったりする? というように聞いていく。
いくつか選択肢をあげて問うことで、一緒に答えを探していくんですね。
たとえ答えが出なくても、その先に出てきた言葉こそが大事なんだよ。
先程あなたが、自分自身で考えを繋いで、答えに近づけたときのようにね。
ひとつの問いから発展し、さらに哲学的な問いによって、答えを教えてもらうつもりが自ら答えに近づいてしまった……なかなか得られない対話を共有していただきました。今日は有難うございました。
「せかいは朝からはじまったんですか?」あなたならどう答える?
掴みどころがないものを、つまびらかにするのは難しい。
だいたい大切なものはみんなそうだ。
けれど、その難しさを和らげる方法はいくつかあるはずだ。
例えば、私たちが過去にどう理解して、今どう理解しているのか。
問い、さぐり、見極め、考えを繋げることで思考の海の青い深みに釣り糸を垂らし正しい言葉で捉えようとする。そうして、捉えどころのない、表現のしにくい気持ちや経験をぴたりと言い当てられるかもしれない。長いあいだ忘れかけていた出来事や人を思い出させてくれるかもしれない。
そう梶谷先生が教えてくれた気がした。
時には考えたって仕方がない、建設的でないし無意味だ、と受け止めることもきっとある。何度もそうやって、やり過ごすことを覚えてきた。
それでも、私たちは、ひとり眠れない永き夜に、ふと問わずにはいられない気持ちになるのはどうしてだろうかーー。
おわりに
時に迷子になりつつも、これほど建設的で、みずみずしく、素晴らしい経験はありませんでした。
からっきし纏りのない私の文章を、丁寧に添削いただいたライターの夏生さえりさん、恣意的なインタビューに快く応じていただいた梶谷真司先生、お忙しいなか、お二人とも有難うございました。
今回インタビューをするきっかけにもなった、私の大好きな記事はこちらです。