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幸せにはなりたい


「rui ogawaには◯◯してて欲しい」
「やっぱりrui ogawaはこういうのだね」

そういう言葉をかけられるたび
「一体何が分かるんだろう」
そういう気持ちになる。
感情で言えば、少し悲しい寄り。

受け取る側が悪いわけではない。
わたしの、わたしのためのエゴなのだ。

深夜1時、10月ももう10日目。
朝起きたときの寒さから急いでベッドシーツを秋使用に変えたけど、秋冬服を出してくるには少し面倒な場所にしまってあるので後回しにしている。
今夜は半袖寝巻きだとさすがに風邪をひきかねないので、お風呂上がりは"その時"用に置いてあった長袖に腕を通した。ほのかにタンスの匂いがする。

季節というより、衣替えにさえ置いてかれている。


人間は卑怯なもので、いざとなると別れを惜しむ生き物だ。まだ夏に置いてきぼりのわたしは、今現在寂しさを感じているのかもしれない。秋の方が圧倒的に過ごしやすく好きだと思っていたのに。

わたしが高校生でまだ心が柔らかいころ、年上の恋人に「別れたい」「別れたくない」を2、3回繰り返して困らせたことがある。
相手は初めから「別れたくない」方だから初めはよかったものの、最後は呆れた顔をしていたのをよく覚えている。

なんて弱い生き物だったんだろう。
たいして今も変わらないだろうに、そう哀れんでしまう自分がいる。確実に「あの時よりはマシ」だって自惚れている。
そしてわたしは"弱い生き物"を振る舞い続けなければいけないことに囚われつつある。

「幸せになるべきではない」
「関わる人間が可哀想」
「人様に怒れるほど大した人間ではない」
「話したことも覚えられていなくて当然だ」

比較的手が届きやすい引き出しに、大切に大切に閉まってある感情たちだ。


数年前、発作で大事になった際にお世話になった医師に言われたのは「ストレスを取り除けばスッと治るもの。前例がある。」
あれから4年が経とうとしているけれど、発作とうまく向き合って過ごしているばかりで良くなった傾向はない。
この場合、生がストレスなら死ねばいいのかと自暴自棄な考えが芽生える方が自然だ。
むしろ死なないだけマシである。


家族がいても
ともに音楽が出来るメンバーがいても
切磋琢磨していこうと思える友人がいても

こんなことを考えているから
「本当にごめんなさい」しか出てこない。

"幸せじゃない"わけではない。
それでも"幸せになりたい"は嘘ではない。

これを読むあなたが"何"というわけではない。

わたしの、わたしのためのエゴで出来た"生"を真っ当していけるための生ゴミのような殴り書き。


日常に戻ります。
今夜はもう少し長い。

rui ogawa

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