「津波てんでんこ」の誤解⑤

「津波てんでんこ」は
矛盾や葛藤を含みこんだ知恵である

前述したとおり、「てんでんこ」は、多面的な意味を併せ持つ重層的な言葉である。
特に、災害マネジメントサイクルのすべての局面に関与する点は重要であろう。

自然災害(特に地震や津波)は、相対的に短時間に発生するとしても、社会的インパクトは長期にわたるという主張がなされている。
しかし、そう理解したとしても、近年の防災研究ですら、事前の準備期、緊急の対応期、その後の復旧・復興期が、それぞれ独立した様相として論じられている場合が多い。

「てんでんこ」の場合はどうだろうか。
これの場合は、相当に旧い概念であるにもかかわらず、ひとつの教えの中に、様々な要素が含まれている。

簡単にいえば、「てんでんこ」は、
表面的には、一刻を争う津波避難時の行動原則に焦点化した用語として知られている。
しかし、それと同時に、事前のコミュニティ(家族や自治会など)のあり方や、事後の被災者の心の回復の手助けやその結集にも大きな意味を持つ教えでもあると言える。
さらに、「自助」のみ強調しているように見えるが、実は「共助」の重要性を強調する要素を多く持つ。
(一般的に、「行動原理としてのてんでんこ」が主に広まっているように見受けられるが)

矢守氏は「『てんでんこ』が、『総合的な災害リスクマネジメント』の必要性を先駆的に予見した用語でもあったことが了解できる」と論文に記している。


そして、論文の最後のページには「てんでんこが困難だと思われる災害弱者・災害時要援護者について」記されている。

現時点(2012年)、矢守氏は「(自分には)この問題を一気に解消する方法を提示する力量がない」という。
毎日新聞社(2011)からは「どう考えても『てんでんこ』と自主防災組織は矛盾する」と、厳しい言葉もあったという。
実際に、私自身が「てんでんこ」と「自主防災組織」の動き方を考えると、糸が絡まるようにこんがらがってうまくいかないように思われた。
「容易には解決できない葛藤・矛盾・対立が存在する」と書かれているが、その通りだと思った。

特に東日本大震災では、期待されていた救助の手(消防団員、自主防災組織メンバー、民生委員など)が、非常に多く津波の犠牲になった事実があり、この問題の解決は容易でないということを白日の下に晒すこととなった。

とはいえ、矢守氏は次のように提起する。

この問題が抱える矛盾・葛藤・対立を、単純な行動ルールなどで設定して拙速に解消してしまわないことである。
東日本大震災を経験した今なすべきことは、むしろ、矛盾・葛藤・対立と真摯に向き合い、それらをわかりやすい形で表現(可視化)し、当事者を含め多くの人びとが、個別の事情を踏まえながら、その軽減・解消策を具体的に考慮するための仕組みやツールを整えることである。

また、こう注意を促す。

”よって、これまでの議論で示したように、「てんでんこ」についても、この原則を、それさえ守っていればすべてが解決する秘策であるかのように扱うことは、この言葉の普及に尽力されてきた山下氏の真意にも反している。
また、たびたび引用した「釜石の奇跡」についても、その成果だけでなく、片田氏はじめ多くの関係者が直面してきた矛盾・葛藤・対立と、その解消に向けた真摯なとりくみにこそ注目すべきである(片田、2012)”

それでは「矛盾・葛藤・対立を重視する」とは、具体的にはどういうことをいうのだろうか。

誤解が生じない程度に簡単に記すとすれば、
津波避難について、何らかの教訓や知識を表現しようとするときには、
「〇〇すべし」「××すべからず」といった単純な行動ルールや、
派生形である「△△の場合は□□すべし」という形よりも、
問題の中に見られる葛藤・矛盾・対立をそのまま保存した様式を用いる
、ということである。

防災ゲーム「クロスロード」は、その考えの元開発されたものである。

さて、初めに書いた中学生が行っていたクロスロードの問題だが、少ないが「様子を見に行く」と回答した人がいた。
多分葛藤したのだろうが、彼らの理由は「もしお年寄りが助からなかったら自分を責めてしまうから」であった。

中学生からでも、小学生からでも、「津波てんでんこ」は防災教育の一環として教わる可能性があるだろう。
個人的な希望だが、「津波てんでんこは悲しい教訓」であり、「まだまだ課題が残っているもの」であり、「単なる避難方法ではない」ことや「日頃から信頼関係を築くことが必要である」こともきちんと教えてほしい。
そして、「クロスロードにより津波てんでんこの課題と真摯に向き合うことができる」ということも。

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