20240903 日記のようなもの
ここ数日ともなっていた気だるさや頭痛が、日を追うごとにはっきりとしたものに感じられる。その正体と原因とを掴むことはできないまま、月は変わり、いつもより長く寝たり、仕事をさぼったりしている。この得体の知れない気だるさが連れてきたのものかは分からないが、最近は何かを書きたい(あるいは書かねばならない)という気持ちがつよく、ベッド脇に放置していた詩の原稿を引っ張り出して推敲したり、積んでいた歌集を開いて首をかしげたりしている。
「詩壇」や「歌壇」といった言葉が何を意味しているかということに関心を持っている。例えば、「Aさんは詩壇で評価された/評価されなかった。」という一文は、何を意味しているのだろうか。もっと具体的に言えば、どのような一文に言い換え可能だろうか。はてなぜこんなことが問題になるのかと思う人もいるかもしれない。「詩壇」と呼ばれる人間はいないからである。
詩を書く人にとって著名な賞の一つをAさんが受賞したら、「Aさんは詩壇で評価された」ことになるだろうか。この点についてはそれほど異論はあるまい(「著名な賞」の範囲はここではおいておく)。では著名な賞をいずれも受賞しなかったら「Aさんは詩壇で評価されなかった」ことになるのだろうか? Aさんが賞を受賞しなくても、例えば詩を書く人にとって著名な商業誌で定期的な執筆の機会があるとか、商業出版された単行本が十分な部数売り上げたとか、著名な出版社から全集が出版されたとか、そういった事実によっても「Aさんは詩壇で評価された」ということになるかもしれない。このように考えてみると、「Aさんは詩壇で評価されたか、それとも評価されなかったか?」という問いに対して、ほとんどの人が「評価された」と答えるような詩人Aもいるだろうし、逆にほとんどの人が「評価されなかった」と答えるような詩人Aもいるだろう。一方で、「評価された」と「評価されなかった」で意見の割れるような詩人Aもいるだろう。
「詩壇で評価された/されなかった」という言葉があるとき、どのようなことが暗黙裡に仮定されているのだろうか。「詩壇」は「詩人の社会」という意味だそうだが(『広辞苑 第七版』)、この言葉には国内に「詩壇」と呼ばれるものが一つだけしか存在しないことや、「詩壇」に属する人々は詩に対して類似した評価基準を持つことなどが仮定されているように思う。もし詩壇が複数あったら、「Aさんは詩壇から評価された」と言ったときに「どの詩壇から?」となるはずである。もし詩壇に属する人々がさまざまな評価基準を持っていたら、ある賞Pについて第N回の受賞者と第N+1回の受賞者を同列に評価することができなくなってしまう(選考委員が入れ替わるため)。このように考えてみて、「詩壇」という言葉を使うときの暗黙裡の仮定は何か、そしてそれらは果たしてどれくらい正しいだろうか、というところから話を始めたいのだが、ここまで考えただけで疲れてしまったので、続きは今後の課題としたい。
最後に最近読んで良かった本の話をしておきたい。点滅社から出版された『歌集 宇宙時刻』は、これまで入手の難しかった小関茂の自由律短歌が多数収録されていてお買い得。ややアンニュイだけども厭世的ではないという塩梅のテンションの歌がたくさん並んでいて面白い。しかも連作で読むとさらに響き合っていてパワーがある。あと古本で『高瀬一誌全歌集』を買いました。『短歌人』の高瀬一誌特集からずっと気になっていて、もっと読みたいので思い切って買ってみたが正解だった。高瀬一誌の歌は元気な歌ではなく、どちらかといえば脱力系の歌なのだが、人生に達観している感じや説教臭い感じもなく、肩の力を抜いてすっと読める。ほとんどが破調の歌でありながら、それでも確固たる韻律を不思議と感じさせてくれる。カニ缶の歌が多い。