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自分で決める

蔵をカフェにしてくれた友人のblogに共感。
この人はいつもタイムリーに私の共感をくすぐる。

カフェをやるとなってね、賛否両論があるわけですよ。
”否”の理由は、
「地元でコーヒー出して頑張っている店の邪魔になる」
「セラピストなんだろう?なんでカフェなんだ。ようわからん」
っていうものと、
一応、使っている施設は指定管理であって、町の所有なのにという理由で、
「やりたい放題やってる」という批判。

移住した当初ならばそういう声が聞こえてきたら、数日凹んだだろう。
でも、今は違う。
私は私が楽しいから私のためにやってるけれど、私のためだけにやってるのではない。
ここに必要だと思うから、ニーズもあると確信したからやるのだ。
自腹を切って。

何かを言う人は、必ずいて、そしてそれはいつも陰で言う。
私のところに来てくれれば、納得いくようにちゃんと話すのに。
わからないことがあるなら、わかるまで話すのに。
私に会うとニコニコ世間話しながら、でもいなくなるとそんな話を誰かにする。
それって卑怯だよ?

そして、言う人は、往々にして「やらない人」だ。
やりたいのにできないのか、やりたいことがないからなのかわからないけど、
やらないから、やる人が気になるのだろう。

そして、”上の組織”は、否定する人に意見を合わせることが多い。
ネガティヴエネルギーは強いから、抑え込みたいんだね。
勇気を出して、リスクも背負って、それでも誰かの笑顔のためにと踏み出した人には「あなたは我慢できるでしょ」と言わんばかりに制限をかけておさえようとするね。
それじゃ「発展」しないよ?
ネガティヴな意見にルールを合わせていたら、進まない。
小さな島に一つのカテゴリのお店が1軒だけなんて発展しない。
切磋琢磨しなくちゃ。
それは外から来て荒らすという事ではなく、モラルを守りながら切磋琢磨すること。

誰にも当てはまる正解なんてない。何が正解か、何が合うかは人それぞれ。
だから、自分で考えなくちゃね。

話は変わるけれど、コロナ対策のこともワクチンのこともそう。
先日、ある人からのメッセージで、
「輝美さんが持っている、ワクチンは危険だという証拠の情報を教えてください」と聞かれた。
まず、違うと思ったのは、「ワクチンは危険」と決めつけていること。
その人の持っている情報ではそうかもしれない。
私個人的にもワクチン接種は現時点では希望していない。
でも、それはあくまでも”個人”の話。
「ワクチンは危険だから、それを説明する証拠の情報を集めて知らない人に教えてあげなくちゃ!」ってなってるのだよね。
それは、それこそ”危険”だ。

コロナのことも、ワクチンのことも、わからないことが多すぎる。
何が本当なのか、何が正しいのか、不明なことが多すぎる。
だから、ワクチンについてはわからない状態で重要な判断はしない、
わからなすぎて気持ち悪いから現時点では受けない。わからないものを体内に入れたくない、っていうのが”私の”見解です。

体のこと、免疫のこと、
どういうウィルスであれ、ウィルスが体内に入ってきた時に体の中で何が起こるのか、感染ってなんなのか、を知っているから、じゃあどうすればいいのかがわかっている、今はその範囲で自分でできることをします。

自分で考えること、自分で決めること、それができない世の中になっていってる気がする。
何が必要で、何が危険で、これからどうしたいいのか、どうしたいのか、
なぜそうするのか、を自分で言葉にできるといいね。

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