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雅体文字Ⅵ|鳥を雅(みやび)の象徴と考えた中国古代の人々

                             王超鷹essay

鳥と雅体文字

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相思鳥(ソウシチョウ)

雅体文字は、一画一画が独特の曲線で描かれ、その曲線は鳥や魚、草木など自然の紋様を一角として描いています。その中でも鳥の容姿を表す曲線が多く使われているのが特徴です。

雅体文字は、貴族諸侯の「品格」をあらわす文字として使わていましたが、中国最古の文字である甲骨文字や金文文字が「読む」ための文字であるとするなら、雅体文字は「読む」ことに合わせて、鳥のもつ曲線美を描くことにより「鑑賞」するものという意味を持つようになりました。花鳥風月を一画一画に表した雅体文字こそが、全ての「文字芸術」の始まりと言えるでしょう。

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寧(雅体文字)王超鷹作

古代文明の鳥の*トーテム

*トーテム:特定の「部族」「血縁(血統)」に宗教的に結びつけられた自然の動物や植物などのシンボルのこと

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▼(左上)中国鴻山(こうざん)戦国貴族墓より出土した玉
「玄鳥(つばめ)」
▼(右上)紀元前2900〜 2350年*シュメール初期王朝時代
鳥の形をしたペンダントのお守り
*シュメール:メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた
▼(左下)エジプト*ツタンカーメンの胸飾り。
ネクベト女神(ハゲワシであらわされる)
*ツタンカーメン:エジプト新王国時代の第18王朝末期(在位:紀元前1332年頃 - 紀元前1323年頃[諸説あり])に、エジプトを支配した最後の直系王族である。若くして亡くなった悲劇の少年王として、また副葬品などがほとんど完全な形で発見された王として、エジプトのファラオの中で最も人々に親しまれている。
▼(右下)4〜7世紀コスタリカ 鳥のペンダント

古代の鳥崇拝は世界のいたるところで見られる。古代の人々は、頭上の太陽を崇拝(すうはい)し、空を飛び交う鳥は「天空の自由な生命」であり、天の使者として崇め(あがめ)られました。そして鳥の卵は「生殖の力」の象徴として考えられてきたのではないでしょうか。

中国の鳥トーテム

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*河姆渡文化(かぼと文化)
象牙に彫られた「双鳥朝陽」(そうちょうあさひ)

*河姆渡文化:中国浙江省に紀元前5000年ごろ存在した新石器時代の文化、長江文明の一つ。(稲作が行われていた)


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*良渚文化(りょうしょ文化)トーテム(鳥の図象記号)

*良渚文化:紀元前3500年頃の長江文明の一つ稲作都市文明を形成していた。玉器のほか絹などの織物も出土している。

古代中国の鳥崇拝|天玄鳥(つばめ)

「*史記」によると*殷の始祖である契(せつ)について、天命玄鳥、降而生商(天玄鳥(つばめ)に命じて、降りて*商を生ましむ)と記されています。これは契の母親は、水浴びをしている時に玄鳥の卵を飲み、契を身ごもったとされるものです。この事から殷王朝のトーテムは天玄鳥(つばめ)であったことがわかります。
つばめ(
天玄鳥)を太陽神と人間を繋ぐ「天空の自由な生命」として崇め奉った(たてまつった)ものと考えられます。

*史記:中国前漢の武帝の時代に、司馬遷によって編纂された中国の歴史書
*殷:紀元前17世紀頃、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝
*商:殷の都市名であり殷王朝を商王朝と呼ぶこともある。また、殷商とも記される

古代中国の鳥崇拝|鳳凰

「*春秋左氏伝」では、中国の歴史の始祖とされる黄帝の子、少昊(しょうこう)は東海の浜に文武百官に鳥の名を当てはめた国家を作ったとされています。
少昊の誕生の時に5色の鳳凰(ほうおう)が天空を飛び、その紅・黄・青・白・黒の5羽の鳳凰が、少昊の生まれた部屋に降りました。この故事から少昊は、鳳鳥(ほうちょう)と称されます。
少昊の最初のトーテムは玄鳥(つばめ)でしたが、即位の時に再び鳳凰が飛来して来たことから鳳凰を氏族の神として鳳凰のトーテムを崇拝するようになりました。
少昊が東海の浜に国家を樹立した時に、文武百官に鳥の名をあてがいました。春を管轄する官職には「燕(つばめ)」・夏を管轄する官職には「百舌鳥(もず)」・秋を管轄する官職には「セイコウチョウ」・冬を管轄する官職には「キンケイ」としました。
その他にも5種類の政務にも鳥の名をあてがいました。教育には賢く忠実の象徴「シラコバト」・軍事には勇猛の象徴「鷲(わし)」・法律には威厳の象徴「鷹(たか)」・言論管理には善の象徴「キジバト」・建築には公平の象徴「カッコウ」の名をあてました。そして全てを管轄する官職を「鳳凰」としました。

*春秋左氏伝:紀元前700年より250年間の魯国の歴史が記されている歴史書。孔子が編纂したとされている。通称「左伝」「春秋左氏」「左氏伝」と呼ぶこともある。

古代中国の鳥崇拝|鵬(おおとり)

戦国時代宋の思想家*荘子(そうし)の書いた「荘子(そうじ)内編」の逍遥游(しょうようゆう)第一には鵬(おおとり)について記されています。

原文|
北 冥 有 魚 , 其 名 為 鯤 。 鯤 之 大 , 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 , 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 ,不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 , 其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 , 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。


王超鷹の書き下し文|
北冥(ほくめい)に魚あり、その名を鯤(こん)となす。鯤の大いさ其の(その)いく千里なるかを知らず。化して鳥となる、その名を鵬(ほう)となす。鵬の背(そびら)、そのいく千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べばその翼は垂天(すいてん)の雲のごとし。この鳥や、海の運(うご)くとき則ち(すなわち)まさに南冥(なんめい)に徒(うつ)らんとす。南冥とは天池(てんち)なり。

王超鷹の現代語訳|
北の果ての暗い海に魚がいて、その名は鯤という。その鯤の大きさは、いったい何千里あるのかも見当もつかないほどの、とてつもない大きさだ。この巨大な鯤が時節が到来して転身の時を迎えると、その姿を変えて鳥となる。その名は鵬という。その背中の広さは何千里あるのか見当もつかない。この巨大な鵬が渾身(こんしん)の力を奮って大空に飛び立つと、その翼の大きこと、まさに空を覆い包む雲のようだ。この鳥は、季節風が吹き海が荒れるときになると、その大風に乗って飛び上がり、南の果ての海へと飛翔する。南の果ての海とは「天の池」である。

逍遥游は第一から第十四まであり全文を解釈すると、時間や大小などの「尺度」や「価値」は、相対的であると書かれています。尺度や価値に絶対はなく、絶対的なものと枠にはめ込んでしまっているのは人間自身であ、上には限りなく上があり、下には限りなく下があるのです。
ですから、権威的に振る舞うことも自らを憐れむことも馬鹿げていると言っているのではないでしょうか。

荘子の思想が表された逍遥游の初めに鵬を用いて、人間の想像を絶する鵬の大きさと天へと飛び立つとしたことからも、当時の人々の鳥に対する畏敬の念が表されていると推察されます。
しかも、魚から鳥へと変身する。これは魚から鳥へと進化する、ダーウィンの進化論よりも2000年以上前に進化を唱えたと考えるのは、私だけでしょうか(笑)

*荘子:紀元前369年〜紀元前286年、戦国時代の宋の思想家。荘周(そうしゅう)姓は荘、名は周。道教の始祖の一人とされ、春秋時代の哲学者老子の「無為自然」を思想の基本とする。
日本でも荘子の「*胡蝶(こちょう)の夢」「*井の中の蛙(かわず)大海を知らず」は有名。
*胡蝶(こちょう)の夢:「蝶になった夢を見て目を覚ました。果たして夢の中で蝶になったのか、それても今の自分は蝶が見ている夢なのか」
*井の中の蛙(かわず)大海を知らず:狭い世界に閉じこもっている者には、広い視野や考え方を持てない。

鳳凰と鵬

鳳凰は、中国神話の伝説の鳥、霊鳥である。日本を含む東アジア広域にわたって、装飾やシンボル、物語・説話・説教などで登場する。雄(おす)を「鳳」、雌(めす)を「凰」と言う。(参照:ウィキペディア)

鵬は、中国に伝わる伝説の鳥。その体の大きさから大鵬(たいほう)とも呼ばれる。「逍遥游」の他「西遊記」「封神演義」など数々の中国の小説に登場する。(参照:ウィキペディア)

辞書で鳳凰と鵬を調べると、おおむね上記のように説明されている。
中国人の思想の根底には、鳳凰は「貴族あるいは皇帝夫婦の例え」、鵬は、「高く遠くへ飛ぶ、偉人や英雄の例え」という意識が強くあります。また、鳳凰は美的なもので、鵬は思想的なものと考えられています。ただし両方とも雅な表現に良く使われています。
特に神鳥「鳳凰」は、美しく雅やかなものとするイメージが現在も色濃く残っていて、専用車は「鳳輦(ほうれん:輦はみこしの意)」・豪邸は「鳳楼(ほうろう)」・刺繡の施された傘は「鳳蓋(ほうがい)」・美しい帽子は「鳳冠(ほうかん)」、そして中国のSNS微信(WeChat:ウィチャット)は「鳳詔(ほうしょう)」と敬意をこめて呼んでいる。

宋8代皇帝 徽宗(きそう)【鳥の絵画作品】

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宋8代皇帝 徽宗(在位1100年~1126年)の作品
(左上)桃鳩図 (右上)際花笑日  (下)瑞鶴図

徽宗は自ら絵筆をとり「花鳥画」を愛し、北宋最高の芸術家の一人と言われ、中国の歴史に徽宗の文化功績は燦然(さんぜん)と輝いています。
特に桃鳩図は徽宗26歳の時の作品ですが、この作品は海を渡り、現在は日本の国宝となっています。桃鳩図の左下には「天山」の押印があり、これは室町幕府三代将軍足利義満の所蔵印です。その後、絵画などの収集家として名高い明治の元老井上馨の手に渡ったのち、現在は個人蔵に所蔵されています。1951年に文化財保護法に基づく「国宝」に指定されました。
文人皇帝として名高い気相ですが、政治の面では宦官(かんがん)を重用し自らの権力強化に努め、人民は悪性に苦しみました。「水滸伝」のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発して政治的には無能とされています。

フランスのシンボル雄鶏(おんどり)と中国磁器の
《王超鷹的考察》

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フランスのシンボル「ガリアの雄鶏」の切手とコイン

明代チキンカップ

明 成化(1465年〜1487年) *闘彩鶏缸杯(とうさいとりかめはい)
*闘彩鶏缸杯、通称チキンカップ万暦帝は、御前に必ずこの酒杯一対を置いて楽しんだ。2014年、香港で開かれたサザビーズのオークションで中国人実業家の劉益謙氏が2億8100万香港ドル(約37億円)で落札した。オークションでの中国古代磁器として、過去最高値を記録。

フランスの象徴として雄鶏のマーックをよく目にします。これは、フランス人の先祖のことをガリア人と言い、このガリアという言葉は雄鶏のことも指すからです。
雄鶏をフランスのシンボルとして使用する理由を政府機関は、次のように公式に述べています。
・フランス人の大半は先祖が農民であるために、家畜である雄鶏には親しみがある。
・フランス人の国民性、鼻が高くて、強情で、勇敢で、多産であるという点で雄鶏のイメージと合致している。

私王超鷹は、フランス人が自分達の象徴として雄鶏を受け入れたのはルネッサンス期からではないかと考えます。

ヨーロッパで雄鶏の持つイメージは、こっけいで、怒りっぽく、なまけもので、淫乱ですらあるとされていて、イギリス人は雄鶏を敵国フランス人に当てはめ、からかうために使っていました。

ルネッサンス期、3大発明といわれる火薬・羅針盤・トッパン印刷はシルクロードを渡り中国からもたらされたものを改良したものです。このシルクロードを越えてヨーロッパにもたらしたものには、中国の呼び名にもなったチャイナ(陶磁器)もあります。
ルネッサンス期は中国では明代に当たります。明代の陶磁器の特徴は、それまで青色一色の染付に、赤・緑など多彩な釉薬(ゆうやく)を用いた赤絵がみられることです。特に雄鶏を描いた陶磁器は縁起が良いものとして、たくさん作られ、ヨーロッパにもわたりました。

中国では雄鶏は、文・武・勇・仁・信の五徳を備えていると言われています。また、朝を告げ夜の悪霊(あくりょう)を退けるものであり、卵は生殖の象徴であり、産後の贈り物としても最高のものであることから、尊ばれてきました。
この思想が、雄鶏を描いた陶磁器(チキンカップ)とともにシルクロードを経て、雄鶏と揶揄されてきたフランス人に伝わり、当時のフランス人の思考が反転して雄鶏にむしろ誇りを感じ、フランスの象徴としたのではないでしょうか。

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雅体白磁鶏文杯(みやびたいはくじとりもんはい)王超鷹デザイン

鳥の紋様は高貴の証から芸術へ

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双楽-雅体景泰藍掛盤(双楽-雅体七宝焼飾り盆)王超鷹作


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同春(18世紀雅体磁器盆)

鳥の紋様は高貴の証としてあらゆるものに描かれました。様々な銅器・ヒスイが埋め込まれたペンダント・絹の織物・髪飾りなど、枚挙にいとまがありません。

高貴の証としての鳥、鳥の持つ美しさや霊力を文字の一画一画に込めたものが雅体文字です。
鳥の優美さと霊力を宿した文字として、書き手の貴族諸侯の品格をあらわしていました。やがて中国が統一されて文字も統一されて行く過程で雅体文字は姿を消してしまいますが、優美さと霊力を宿す文字は芸術的な思考として残り、あらゆる文字芸術の礎となりました。

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天地(雅体篆刻)王超鷹作


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