(エッセイ)「子育て」という言葉への違和感
5歳と1歳の子どもを育てている。
こんな風に書くと「育てている?あなたが?」と怒られるので、今後の人生のために書き直しておきたい。
「妻の指導のもと、5歳と1歳の男児を育てている。」
太字が訂正箇所だ。これでお小遣いを減額させられることはないだろう。別に公表することでもないのだが、そもそもどうして我が家はお小遣い制なのだろう。大人になったらお小遣い制は卒業できると思っていた。
話を本筋に戻すが、この書き方ではまだ違和感がある。「育てている」という言葉にある上から目線がどうしても気になってしまう。
「妻の指導のもと、5歳と1歳の男児の成長をサポートしている。」
文末が新たな訂正箇所だ。この方が日々における心掛けに近くなっていると思う。
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長男が生まれた頃は子育てを「時間泥棒」としか思えなかった。あれもやりたい。これもやりたい。なのに子育ては俺の時間を奪っていく――。
それから約5年が経って、今はようやく「子供を連れ出して妻に休んでもらおう」という発想が出来るようになってきた。(「5年も掛かってんじゃねーよ」というお叱りには返す言葉もありません)
本記事の新幹線「はやぶさ」の写真は、次男を連れだし、2人で東京駅に行った時のものだ。電車好きの子供にとって東京駅は格安で見られるヒーローショーだ。
そうして子育てへの姿勢が少しずつ変化すると、普通に使っていた「子育て」「育児」という言葉に違和感を覚えるようになった。
また、世間でチヤホヤされている「イクメン」という言葉についても、「育児は女性がするもの」という慣習と同根ではないかと思うようになった。
こと「子育て」「育児」には関しては、この記事でも仕方なく使っているが、これではまるで親が偉く、子供が未熟な存在であるかのようだ。
しかし少なくとも僕に関して言えば、子供たちはすばらしく野心的な科学者であり、僕はその実験を邪魔する未熟な存在である。
僕はいまだにオモチャに正しい遊び方があると思っている。そしてその有り触れた正しさを押しつけようとしてしまう。
しかし子供は確実にもっと豊かな発想をもってオモチャと向き合っている。大人には思いつかない仮説を立てながら、挑戦的な実験をしまくっているように見えるのだ。
そんな野心的な科学者たちを、すっかり人混みに流されて変わってしまった僕が育てられるのか。いや、僕にはできそうにない。
しかし「成長をサポートする」ことなら何とか出来るのでは、と思っている。
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そもそも、長男が5歳になるまでに一体どれだけの人達にお世話になっただろう。「夫婦で育てた」とはとても言えないし、事実とは異なる。
まずは保育士さんだ。職務内容に対して「菩薩かよ!」というツッコミが適当な数少ない職業だろう。我々に「休息」という感覚を取り戻してくれた感謝は生涯尽きることはない。
そして助産師さんもだ。母乳の出し方、乳首の休ませ方まで、西洋医学ではカバーの難しい領域の知識を伝授してくれた。なぜすべての助産師さんが人間国宝でないのか理解に苦しむ。
ほかにも子育て情報をくれたママ友の皆さん、乳児期に食事を作ってくれたヘルパーさん、育児の公共サービスで働く方々・・・。
本当に温かい「他人様」に囲まれ、支えられ、我が子たちは育ってきた。
もし本当に夫婦2人だけで子供を育てていたなら間違いなく追い詰められ、ロープの使い道がひとつしか思い浮かばなかっただろう。これがまったく冗談でないところが子育ての恐ろしいところだ。
その子育ての恐ろしさ、苦しさを超えて、今は子育てを楽しめる余裕が少しずつ出てきた。
これから少しずつ「育児note」を書いていきたいと思っているが、仕事と子育ての合間にnoteを更新するのは最高難度の離れ業だ。この記事も数ヶ月間の「下書き」状態だったものを書き足していった結果、ようやく公開ボタンを押せたもの。
次回はいつになるか分からず、もしかしたら次回の記事タイトルは「息子が成人式」かもしれないが、それはそれで子育てのリアル、かもしれない。