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僕がラグビー登山家になるまで 6歳 | 富士山の話。

僕が初めて富士山を見たのはに幼稚園の年長であった5歳の頃。福島県へ親戚の家に遊びに行った時の帰りだった。当時の年齢であれば誰でもそうであると思うが、全ての物事が初体験で、見るもの、触れるもの、全てが新鮮であった。僕は言ったかどうか記憶に定かではないが、その富士山を見て、その美しさ・大きさに驚き、いつのまにか登ってみたいと言っていたらしい。

それを聞いた子煩悩である父親のスイッチが入ってしまった。

次の週には小さい足の僕のためにトレッキングシューズを買いに行き、その翌週には近くの300mほどある鳩吹山へ僕を連れてトレーニングを開始しだした。

父親は登山経験はなかったが、子供であった僕が言っていたことを叶えたいとの一心から、登山の教本を読み漁り、「山と渓谷」の雑誌を買いだしたのもその頃である。

初詣では僕は当時発売されていたスーパーファミコンが欲しいと願っている中、今年の目標は家族4人で富士山に登ることだとの1989年の家族目標が父親の口から告げられた。

おそらく当時の僕はそのことに対してピンと来てはなかったが、どちからといえば静かな人である父親は熱く僕らに語りかけており、父親の人生をかけた一大イベントであったのだと思う。

父親は家族を大切にしていた。それは当時の僕は中々気づきにくく、空気のように当たり前のことであった。

7月頭、前哨戦であった伊吹山ではヒーヒー言いながらもなんとか登れたので、僕が小1であった6歳の夏休み、つまり初めて富士山をみた時からちょうど一年後に家族4人で富士山に挑むことになった。5合目からスタートしたが、7号目あたりで僕の胸が痛くなり、急に歩けなくなってしまった。父親の背中に僕はおんぶされながら家族4人で登頂を目指していたが、体重20kgほどある僕を身体がそこまで強くない父親が抱えて登れるはずもなく、8合目あたりに下山することとなった。

父親の一世一代の大冒険のはじまりは敗退からのスタートであった。あまり感情を表に出さない父親が、雪辱に燃えていた。

一般的には富士山ほどの高度であれば、翌年にリベンジ戦を回すのが一般的ではあるが、気づいたら敗退した翌週も僕たち家族4人は富士山にいた。ゆっくりゆっくり歩きだし、そして山頂に立った。

父親はオケ部出身のエンジニアということもあり、比較的おとなしい大人の分類に入る人ではあったが、その時は感情を爆発させて、無邪気に微笑んでいた。

倹約家で、ガソリンが1円安いと隣町までガソリンを入れに行く父親であったが、色々と食べ物が高い山頂の山小屋で「何でも食べろ!」と男気を見せていた。

母親が後の父親の葬儀の中で富士山の思い出を振り返ってこんなことを言っていた。「家族一丸となれば、何でも乗り越えられる!?」


当時の僕は身体が小さく、酸素が薄くて苦しい思い出しかなかったので、早く家に帰ってスーパーマリオの続きをしたいとの思いに駆り立てられていた。しかし、今となっては子供がいるからこそ、父親の当時の思いを手に取るようにわかる。

僕の人生の中で「富士山」というのは最初に僕が挑戦というものをフツフツと感じ取った場所であり、幼き頃の家族4人の大切な思い出が埋まっている場所である。



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