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僕がラグビー登山家になるまで 22歳 | バックパッカーをしていた時の話。

「夢」であった花園に高校を卒業してから4年遅れでプレーすることができ、僕は燃え尽き症候群になっていた。同期や後輩たちに本当に申し訳ない思いが30を過ぎた歳になってもいまだにあるのだが、当時の自分の心境を素直に話すとラグビーで見たい風景を僕はだいたい見てしまったような感覚があった。2浪という劣等感を心の中でずっと引きずっており、今までやったことのない何かに挑戦してみたかった。それが、バックパッカーであった。

沢木耕太郎の「深夜特急」を読んだことも影響をしているが、僕は無類の映画好きであった。中学の頃は1日3本ほど見ており、医者がダメであったら、映画関連の仕事に就きたいと当時は思っていた。その思いと同じぐらいに世にある名作のの舞台地に行きたいとの思いがフツフツとあった。『モーターサイクル・ダイアリーズ』のモデルであるチェ・ゲバラも旅をしており、世界の偉人は若かりし日に旅をしているからこそ、僕も真似てみたくなったのだ。

先の記事で書いたよう、僕の初めての一人旅はシンガポールから中国に北上するものであったが途中の桂林の地で中国マフィアに遭遇し、命からがら逃げて終わった。普通ならトラウマレベルの話かもしれないが、僕の好奇心に火をつけてしまった。僕はラグビーのオフ期間に弾丸で旅をすることを心に決めた。第二弾はインド&ネパール、第三弾は中国横断&パキスンタン、第四弾はレンタカーでアメリカ横断、第五弾は中南米縦断と5回に分けて学生時代には旅をした。

海を渡ると全く別の世界がそこには存在し、その空気に触れる度にたまらなくドキドキするのだ。旅先で出会う方は良くも悪くも癖が強く、今まで会ったことがない人たちばかりと出会っていた。面白い方が多かった。

インドで見たヒンドゥー教というのは僕が想像していた宗教観をはるかに超えるものであった。人生初めてのボランティアを行なったのも日本ではなく、コルカタのマザーハウスであった。

中国横断時では現地の軍人さんと一緒に行動し、ブラザーとお互いを呼び合う仲にとなっていた。北京オリンピックの競技場の工事に携わっていた日雇い労働者が泊まっている安宿に一緒に泊まり、悪そうな中国人たちがリビングで麻雀をやっている隣で、防水カーテン越しにキッチンにて水シャワーを浴びなければならなかった。軍人さんと共に盧溝橋や731部隊跡等の日中戦争に関わる博物館を訪れていた。最後には黒竜江省にある実家に泊まらせてもらい、当時歴史教科書問題が叫ばれる中、将来はお互いの関係を草の根レベルで良くしようとの契りの盃を交わした。

モンゴル自治区のとある村では日本人が初めて来たということでシルクの布をもらい、気づいたら、その村の親善大使になっていた。

パキスタンではこの世の桃源郷と呼ばれるフンザに行き、杏ばかりを食べていた。パキスンタンから中国に戻る際、一緒に行動していた日本人の方が宗教上の理由で水しか飲まなく、中国の国境沿いの検問にてX線の検査で胃腸が空だとの理由で、彼は再検査のため離れ離れになってしまった。その後の足取りはわかっていない。

アメリカでは14日間にラグビーの仲間3人と研究室1名の計4人でレンタカーを借り、6000km横断するという計画を実行した。しかし、サンフランシスコでレンタカーの窓ガラスが壊され、車内に入っていたi-podやビデオカメラが盗まれてしまった。窓ガラスがもバキバキに壊れている状況でもレンタカーを交換し運転しなければならず、そのことが理由で7日経っても西海岸にいた。東海岸へ向かうのにあたってエナジードリンクとビーフジャーキー片手に寝ないでルート66を走っていた。

卒業旅行であった中南米旅行では、まだ国内で有名でなかったウユニ塩湖に訪れ、この世のものとは思えない絶景に心打たれた。地球の裏のパラグアイやブラジルでは日本の昭和感漂う村があり、お豆腐屋がラッパを吹いている光景に驚いた。戦前、日本から移民してきた人たちの挑戦心に感服し、僕もいつかは海外の地で何か勝負したいとの思いになっていた。

旅先での訳の分からなさがたまらなく楽しかった。

しかし、旅を続けていく中で、ドキドキしなくなっている自分に気づきはじめた。予定調和を崩される感覚が徐々に薄れていき、定番化した旅のルートをただなぞっている感覚を持ち出したのだ。世界地図を睨み、僕は僕にしかできない旅を探し出したのも旅の末期頃である。

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