僕がラグビー登山家になるまで 18歳 | 愛知県大会決勝で負けてしまった時の話。
高3のゴールデンウィーク時、当時の全国大会3連覇中で高校最強と名高い啓光学園との練習試合を行った。相手には高校ラグビー界で有名な選手もおり、終始、僕は相手の威圧感に呑まれていた。
高校日本代表である相手のLOの強烈な当たりに僕はヒキガエルのように青天され、右肩が火傷するのではないかとの思えるほどの熱を感じた。試合は半べそをかきながら、そのまま出場し続けていたが、結果は確かボロボロだったと覚えている。試合後、全く力が入らない右腕を医者に診てもらったのだが、首から右肩にかけての神経が切れてしまっており、半年間の安静を要するとのこと。ラグビーはしないようにと告げられた。
しかし、半年も休んでしまうと、花園予選にも間に合わない。迷いは全くなかった。医者の忠告を無視した。
時には喧嘩し、ぶつかり合いながらも切磋琢磨したこの仲間と共に花園に行きたかった。
そして、まだ花園に行ったことがなかった監督を僕たちの手でハレの舞台に連れて行きたかった。
右手が思うように動かず、焦燥感に駆り立てられながら、ラグビーの全プレーを左手でできるように気合いでなんとかした。「血の滲むような努力」というものを自身で語るのは抵抗があったりするが、人生の中で一番頑張っていた時はおそらくこの頃である。ラインアウトのリフトが難所で、右肩が上がらないため、それこそ左手一本でジャンパーを支えるまでに筋力を鍛え上げた。
すぐに相手にビビってしまう性格であったが、高校ラストイヤーであったことからこそ、ラグビーに対しての向き合い方、取り組み方、全てが変わった時だと思う。
僕が所属していた明和ラグビー部は創部以来の快進撃を続けていた。名古屋工業に55対7で県大会の初戦を飾り、続く二回戦では岡崎城西高校を83対50で勝利。準決勝である名古屋高校には危なげない試合展開で39対12で破った。
しかし、この時に一番やってはいけないことをしてしまっていた。右手の小指の骨を折ってしまっていたのだ。何が何でも決勝戦の舞台には出場することは決めていたので、キャプテンのみにこの事を伝えて、テーピングでグルグル巻きにし、普段通りの練習をしていた。他のメンバーには心配させたくなかったためだ。
そして、とうとう決勝戦。
僕は試合前から感極まって泣いていた。あんなにも苦しい思いをしてきたのはここに来るためだったのだと。この試合が終わった時には死んでもいいとの覚悟を決めてグランドに踏み入れた。
試合開始。緊張で他のチームメイトが本来の力を発揮できない中、いつも陰に隠れている僕は自分史上、最高のパフォーマンスを発揮していた。日本代表候補に選抜されていた対戦相手のNo8の独走をコーナーギリギリで粘り強いタックルで仕留め、アタックでは相手の意表を突く飛び出しで必ずゲインしていた。しかし、舘ひろしの出身高校である千種高校には惜しくも5点差で負けてしまった。グランドの芝の上で泣きじゃくっていた僕をあんなにも恐かった監督は「あのグランドの中で一番いい動きをしていたのは長澤だ」と肩を叩きながら優しく言ってくれた。その言葉は今のプロジェクトを強く推進するに至る強い自信にもなっている。
時を経て、大人になって改めて思うことはラグビーに触れる瞬間というのは嘘偽りなく本当に幸せな瞬間だったりする。
11歳の時に父親を亡くし、塞ぎ込んでいた自分を救ってくれたのは間違いなく、ラグビーとラグビーに関わる人のおかげだ。
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