「予備校文化」への一考察


2024年5月3日 ゲンロンカフェにて(著者撮影)

 先日珍しく夜休み取れたので、ゲンロンカフェでのイベント「予備校文化(人文系)を哲学する」を観てきた。mixiやTwitterで交流させてもらっていた入不二さんと初めて直接ご挨拶できてうれしかった。なんと5時間近くにわたる熱い対話が交わされ、ぎっくり腰には堪えたが、本当に面白かった。 私は地方出身なので、ここで論じられた「予備校文化」は書物からの想像の産物でしかなかったが、霜先生、大島先生、入不二先生のショートレクチャーを生で聴けて想像を超えるものだと実感した。予備校文化全盛期は私が受験生時代とも重なるがその時代にこういう授業を受けていた人達が羨ましく思った。質問者が多くて発言できなかったので、感想を以下に書いてみたい。

1 「予備校文化」と現代の予備校

 まずこのイベントでの入不二さんの考察「予備校文化とは河合塾で始まり、それは言わば全共闘世代の「大学解体」の再現・実験であり大学という権威への反抗であった。だが大学の権威が相対的に落ちた現代ではその意義が見失われていったのではないか」これは大変説得力があった。だから予備校はよく言えば純粋な学習の場に収斂していった気がする。予備校文化が衰退すると軌を一にするように大手予備校に対抗する私が勤務するような中小予備校が台頭してきた背景にはそういう面があるように思う。予備校は急速に学習塾に近づいて行った。その分、勉強を教えることを越えた所にある生徒自身の興味関心の広がりや知的好奇心の刺激、自分との向き合いや発見という側面は予備校の「教室」からは減っていたのかもしれない。私が勤務するような小規模予備校では授業外の質問や相談という場面でそういうものを確保できることもあったが。

 ただ今の一部の予備校講師たちは最初からそういう「勉強を越えた所にあるもの」を予備校には求めていない。そういうものは大学に入ってからゆっくり見つけてくれればいい。そのためにも一刻も早く受験勉強というくだらない場所から解放させてあげたい。そのために私たちはいる。そう言い切る講師もいる。

 だが、私はそれだけでは寂しい気がする。受験勉強を教える中で自分の専門性や知識を利用して少しでもその生徒の知的関心や人生を豊かにすることに寄与できないか。その中で私自身の知的関心や人生も豊かにできないか。そういうことも求めたいと思ってしまう。勉強をきっちり教えた上で。

 だから今の現場の予備校講師は、以前の予備校文化全盛期の講師たちよりもかなり困難で大きな課題に挑戦している。その課題への対処の仕方として、勉強法をシステムとして教えることに特化する人もいる。それも正しいと思う。ただ私はそれでは寂しいと思ってしまう。

2 選抜=入試のあり方の変化

 あと登壇者の先生方が言っていた、文科省やその上から要求される入試問題への抵抗としての問題=大学からの「こういう生徒に来て欲しい」というメッセージが入っているという問題は、従来の英語や国語という科目ではかなり困難に成ってきているという実感が私もある。実際、今の大学の入試=選抜は複数化・多様化し、学力試験の問題にそのような思いを込める余裕がないように思えてしまう。とにかく日程分・方式分の入試問題を作り上げることだけでギリギリの状況ではないのか。名前は伏せるが、20年以上前のセンター試験の焼き直しの問題などを平気で出している名門大学もあるくらいである。これは逆に言えば、それほど大学側が追いつめられているとも考えられる。

3 総合型選抜へのもう一つの視点

 それでふと思った。総合型選抜(小論文や面接などで選抜する入試)を各大学が大幅に取り入れているは、実は「こういう生徒に来て欲しい」というメッセージがストレートに伝わりやすい入試形態だからではないか。しかも小論文は文科省の学習指導要領などの縛りがほぼなく自由度が高い。

 よく総合型選抜は受験生の青田刈りだという批判を受けるが、その面ももちろんあるが、小論文や面接・課題レポートの採点といった総合型選抜の手間のかかりようはマークシートの学力テストの採点と比べようがない。それを研究等に忙しい大学教員がよしとする理由を考えるべきだろう。

 元予備校講師で今は大学教授である入不二さんは、著書『問いを問う』の付録で自著の文章を東北大学現代文で出された事例をあげて、それに対する予備校講師の解答例が文章を十分に読めていないのではないかと問題提起していた。その際その原因として「一般論と著者の意見」というような二項対立に図式化して説明する予備校講師の常套手段があるのではないか、という指摘をしていた。この予備校講師の常套手段の介在の可能性を助言したインド哲学研究者兼予備校講師は何を隠そう私であるのだが、この可能性というか弊害は予備校講師としては常に悩ましいものである。それだけでは解決しない文章・問題があるとは重々分かっていても、今目の前にいる生徒の読解力をある一定程度まで底上げするにはそういった二項対立図式などを教える必要があるからだ。

だが、小論文であればそういう二項対立的図式を当てはめるだけでは答えは出ない。課題文や資料の読解にそういう図式が役に立っても、最終的には正解のない課題に対して、手持ちの材料で自分なりの答案を作らなければならない。その上で採点者側は手間はかかるが、本来の意味での自分の教え子になる学生の選抜が出来る。だとすれば、大学側のこういう学生に来て欲しいという「心を込めた問題」が一番作りやすいのは小論文という科目になる。だからこそ、採点や評価の手間がかかっても小論文を使った入試=総合型選抜が増えているのではないか。

4 予備校という「場」に根ざした「予備校文化」

 最後にこのイベントで語られた「予備校文化」は大都市圏特有の文化なのではないか、という点を指摘しておきたい。だからこそ地方の高校生や浪人生は東京などの大都市圏の予備校に行きたがり、大手予備校には寮が併設されるの当たり前になっていた。特に地方の普通の進学校の高校生にとって、文化的香りのしない高校教師からの偏差値や就職への有利性にしか注目しない進路指導への反抗がそのまま「予備校文化」への憧れに繋がった。(私がそうだった)今は衛星授業やネット環境の整備などで「授業のレベル」だけなら地方にいても知ることが出来るようになった。

だが、本当の意味での「予備校文化」とは授業でも感じられるが、それ以外の予備校という場での、講師や横で一緒に学んでいる友人などとが作り上げる場が作り上げているのではないかと思う。残念ながら、そういう「場」はネットや衛星授業では醸成しにくいと思う。

 

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