モアナに抱かれて~ハワイ散骨式の記憶~
::プロローグ::
駆けつけた病院の受付で、スタッフの困ったような笑顔を見た瞬間、不安は確信に代わりました。
案内されたのは、緊迫するICUでもなく、白い病室でもない。『霊安室』と小さな札が掲げられた、簡素な一室でした。
身体が弱く、晩年は殆どの時間をベッドで過ごしていた父。
そんな父が見違えるように元気になるのは、大好きなハワイを旅している時だけでした。
父が初めてハワイを訪れたのは、私が30歳目前となった時。すねかじりで心配ばかりかけていた私は、僅かな貯金をおろして格安ツアーに申し込みました。ささやかな親孝行です。
初訪問ですっかりハワイが気に入った父は、それ以後、病身を奮い立たせ、どうにか2回ハワイを訪れ、
「もう一度だけハワイに行ければ死んでもいい」
が口癖となりました。
けれど、最後の願いは叶えられることなく、父は天に召されました。
父の遺骨はハワイ、ワイキキ沖に散骨しました。
今から20年以上前のことです。
誰にでもいつか最期の時が訪れます。金持ちだろうが貧乏人だろうが、死というものは、生き物である限り、平等に訪れるものです。
私も死んだらどこかの海に還りたいと願っています。いつか来る「その日」のために、当時の記録を詳細に記しておきました。
この記事を目に留めて下さった人の中にも、同じことを考えている方がいらっしゃると思います。
古い情報ではありますが、少しでも参考になれば幸いに思います。
この記録が、皆様のお役に立てる日が、ずっと先のことであることを願いつつ。
散骨業者は数あれど
気がつけば父の一周忌が近づいていた。
葬儀が終わってから、ずっと私の家に置いたままの父の骨壺は、本やレコードが納まった棚の上に鎮座している。
私にはアイスクリームにチョコレートシロップとハチミツをぶっかけたように甘かった父だったけれど、外では色々とやんちゃしていたようで、母からは、
「絶対に一緒の墓には入らない!」
と、亡くなる前から宣告されていた。
父は婿養子。実家のお墓は母の家系のものなので、そこに納骨することもできない。
「俺が死んだら、葬式もしなくていい、戒名もいらない。遺骨は、そのへんの川にでも流してくれればいい」
生前、そう言っていた父だけれど、本心は、大好きなハワイの海に散骨して欲しかったのだと思う。
「私がパパをハワイに連れていく」
父が亡くなった時、家族親戚の前で私は宣言した。
それが夏の初めのこと。けれど、相続放棄の手続きやら何やらで延びに延びて、結局年を越してしまった。
本腰上げて計画をと、まずはハワイでの散骨について、調べてみる。
◆ハワイの州法により、陸から3マイル以上離れた場所で、かつ特別な禁止区域以外であれば散骨を行える。
◆遺骨はあらかじめ砕いてパウダー状にしておくこと。
もっと色々と面倒な手続きが必要かと思っていたら、意外とあっさりしたものだった。
遺骨は母があらかじめ砕いてパウダー状にしておいてくれたので問題なし。あとは「どこに」一連の行事をお願いするか、ということ。
ハワイでの散骨を執り行っている業者は決して多くはないけれど、検索してみるといくつかヒットする。どんなものかと一読してみると、結構なお値段。散骨証明書やハワイの神父さんや写真撮影代等も入って、当時のレートで20万円台がほとんど。
お金に糸目をつけるつもりはないけれど、船に乗って、故人の遺骨を海に流す。それだけ(と言っては語弊があるかもしれないけれど)のことで何十万円ものお金が動くということが納得できなかった。
それでもかまわない、というご遺族もたくさんいるだろうけれど、葬儀も戒名もいらないとまで言っていた父の意思にはそぐわない。かといってディナー・クルーズ船から撒き散らすわけにもいかない。
さてどうしたものかと、改めて考えあぐねてしまった時、以前ハワイで手に入れた無料情報誌をパラパラとめくっていた私は、そこに『散骨チャーター $300』という文字を見つけた。
早速、その会社に問い合わせのメールを送ってみると、すぐに返信があり、$300+TAXで散骨のためのチャーター船を出して下さるとのこと。迷わず申し込み、次に航空券とホテルをおさえる。
この時点で、すでに出発10日間前。旅支度はカウントダウンに入った。
南国へ行く準備は手慣れたもの。水着にサングラスにパレオに文庫本etc.
遺骨が結構重い。老人とはいえ人間一人分の骨なのだから当たり前だけど。愛用の旅行用ショルダーバッグには入らないので、大きめのリュックサックを用意した。空港では何度もパスポートを出し入れするので、リュックだとかなり面倒なのだけれど、いたしかたない。ジップロックで二重に密閉し、更紗の余り布で作った巾着に入れた。
そして迎えた出発の日。
前日、前々日と、二夜連続でKISSのLIVEに出かけ、耳鳴りがおさまらない中、父の遺骨を抱えた私は、成田エクスプレスに乗り込んだのでした。
ハラハラ荷物検査 成田編
LIVEでハッスルし過ぎた。耳鳴りだけではなく全身筋肉痛。おまけに寝不足。LIVEの後、友人たちと連日夜遅くまで飲んで、二日酔いのまま仕事していたのだから自業自得。
空港に着いたら、宅配便で送ったトランクケースを受け取って、チェック・イン→出国。
保安検査場でベルトコンベアにリュックを乗せると、
『ピーーーーーッ!!』
不吉な音が鳴り響く。
え、何? まさか遺骨?
有無を言わさず中身を調べられる。
ハラハラハラ……。
何も悪いことをしているわけじゃないけれど、リュックの中には遺骨が入っている。父は金歯を入れていただろうか? 私は不安になる。火葬の際、燃えなかった金の破片なんぞが反応しているのではあるまいか。
「これは何ですか?」
巾着に包まれた父の遺骨に触れて違和感を感じたのだろう。検査官が聞く。
「あのう、遺骨なんです」
「あ、そうですか」
あっけなく納得する検査官。
ほっ。結局犯人はデジカメであった。
ようやく搭乗時間となり、私は我先にとゲートに向かう。機内サービスの新聞か雑誌を手に入れるためだ。ところが、搭乗口を目前に、呼び止められてしまった。
「ここに座って下さい」
と、女性警備員。
椅子に座ると靴を脱がされ、足の裏までチェックされる。その間、別のスタッフが鞄の中を漁る。他の搭乗客は、というと、そんな私を横目で見ながらすいすいと通りすぎ、機内に入り始めているではないか!
たまらずに私は訊いた。
「あの、これは一体どういった基準で調べているんですか?」
「ランダムです」
なにぃ? だからって、なんで私? 隣で調べられているおじいさんも一人旅らしい。 ぶらっと一人で搭乗口に向かっている、あまり反抗しそうにない人間を狙っているに違いない。
リュックを調べていた女性が例の巾着に気がついた。当たり前のように紐をほどこうとしている。
「それに触らないで!」と叫びたい気持ちを抑えて、急いで靴を履き、遺骨であることを告げると、ようやく手を止めた。
「はい、ご協力ありがとうございました」
ありがとうもなにも……。どうして一人孤独に旅立とうとしている時に、何よりも大事な遺骨を抱えている時に限ってこんな目にあわなければならないのか。
だいたい全員調べるのでなければこんな検査は全く意味がないじゃないか。実はこの時、ニューヨークの9.11事件からさほど日が経っていなかった。
おそらくは警告というより脅しに近いデモンストレーションみたいなものだろう。
変なデモのおかげさまで善良な一搭乗者の私は雑誌を取り損ね、しばらくは腹の虫が治まらなかった。
まあ、あと数時間もすればハワイの乾いた風が迎えてくれる。おいしくビールを飲んで、ゆっくり寝よう。
それにしても手荷物の検査官も警備員も全員女性というのは敵も考えたものである。これが男性で、女性客の荷物の中にタ○ポ○なんぞを見つけてしまった日には大騒ぎだろう。
さて、不愉快なことは忘れよう。
でも、でもである。
乾いた風の前に日本よりも厳重体制となったアメリカ入国審査がある。遺骨を麻薬と間違えられて拘束されたなどという恐ろしい話しも聞いているので、安心してもいられない。ああどうか、無事にくぐり抜けられますようにと、祈りながら私は眠りについたのでした。
ハラハラ荷物検査 ホノルル編
入国審査官はロコっぽいおじさん。その横に若い女性スタッフがついている。
「滞在の目的は?」「日数は?」
とお決まりの質問の後、
「帰りの航空券を見せて下さい」
プリントアウトしたA4用紙のEチケットを見せると、ロコおじさんは眉をひそめた。すかさず隣の女性が、
「インターネット・チケットですよ」
と助け船を出す。当時はまだ珍しかったEチケット。ロコおじさん、初めてお目にかかったらしい。
ロコおじさん:「一人できたの?」
私:「はい」
すると女性スタッフ、
「ナンデヒトリ?」
大きなお世話である。(だいだい、ナンデそこだけ日本語なのだ?!)
一人でハワイに降り立つ旅行客なんて、それこそ一日何十人もいるはずなのに。散骨云々と、正直に話すのも面倒なので、 「友達に会いに来た」 と答える。おおいに納得したらしく、これにて放免。
最後に問題の税関。
過去10回のアメリカ入国の際、荷物を引っくり返されたことは一度もない。 けれどもこの国はまさしく戦争へ向けて秒読み段階に入っているところである。リュックの中まで覗かれて、遺骨に気づかれたらどうしよう。火葬が中心の日本なら、話は早いけれど、理解されずに、麻薬と間違えられちゃったりしたら……。
と、これらは全て取り越し苦労だった。飛行機を『降り』さえすればあまり深刻な問題ではないらしい。パスポートを見せ、入国審査と似たり寄ったりの質問をされるだけである。ところが、私のパスポートを見ていた税関士は、懐疑心に満ちた目を向けてこう尋ねた。
「何度もマレーシアに行っているようだけど、なぜ?」
これも大きなお世話である。
「マレーシアが好きだからです」
私は正直に答えた。だって、あの国にはこんな意地悪な質問する人間はいないもの。
「何をしに?」と 聞かれたらそう言い返そうと思っていたけれど、あっさりと解放してくれた。
さて、ようやく空港の外に出た私はハワイの空気を胸一杯に吸い込む。空は青く、風は暖かく、そして太陽の光はいつもの通り眩い。
ここがあと数日で戦争が始まるというアメリカと同じ国だなんて、とても信じられない気持ちで、まずは数時間ぶりの煙草に火をつけたのでした(現在はノン・スモーカー)。
ノース・ショアまで
今回は何としてもノース・ショアへ行こうと決めていた。ハナウマ・ベイ、ダイアモンド・ヘッド、アロハ・タワーはもちろん、 潜水艦ツアー、カイルア・ビーチからポリネシア文化センターまで、一通りのオアフの『見所』を制覇した父が、ずっと行きたがっていた場所である。
ひょっとしたら『最後の楽しみ』にとっておいたのかもしれない。けれど、ついにその夢を果たすことなく逝ってしまった。だから、骨になってはしまったけれど、どうしても父を連れて行きたかったのだ。
遺骨を海に還す前となると到着日しかない。レンタカーでドライブ、という手もあるが、私はもう何年も全く運転をしていないペーパー・ドライバーな上、致命的な方向音痴である。となると、車をチャーターするしかない。ちょっと高くつくけれど、そこは目を瞑って申し込んでおいた。
約束の9:00ぴったりに、リクエスト通り、女性ドライバーが私を迎えに来てくれた。
天気は上々。絶好のビーチ見物日和である。世間話をしながらノース・ショアまで、快適なドライブが続く。ワイメア・ビーチ・パーク、パイプラインそしてサンセット・ビーチと、ノース・ショアの代表的なビーチを案内してもらう。
父が夢見ていた場所。ポリネシアの文化と古き良き時代のアメリカが融合した街のビーチ。そして、これぞ本当のハワイの波―BIG WAVE。
「パパ、満足してもらえたかな?」
リュックの中の父に話しかけ、プチ・トリップは終わる。
ホテル前に着いたのは午後1時過ぎ。
案内された部屋の窓を開け放つと、ハワイ特有の乾いた南風が吹き込んでくる。その風に乗って、サン・オイルとココナッツと花の香り。ラナイに出ると、元気いっぱいの太陽が光のプールを作っている。
病身ゆえ、海に入ることもかなわず、精力的に街を歩き回ることも出来なかった父だけれど、こんな風にラナイで風に当たっているだけで、満足だったのだろう。 何もしなくとも、父は幸福だったのに違いない。この、ハワイの空気に包まれてさえいれば。
『その日』を迎える
散骨当日の朝。
フラダンスを習っている友人にあらかじめ聞いておいたお店でレイを買い、黒字に花を散らしたデザインのサロンを巻き、私は迎えを待つ。
約束の11:30。船長さん自らがバンで迎えて下さり、港へ向かった。
チャーター船を出してくれたのはフィッシングを専門にしている会社(現在はクローズ)で、もちろん船も釣り舟。
「上の方が気持ちいいですよ」と、2Fの操縦席の後ろに招かれ、散骨のポイントへ向かう。
「運がよければクジラが見れます」
と、船長さん。
当日は土曜日ということもあり、高校生くらいの船長の息子さんが操縦を担当。散骨場所は想像していたよりずっと陸地に近く、ワイキキ・ビーチのホテル群とダイアモンド・ヘッドが見渡せた。そこは、きっと父が望んでいた通りの眠りの場所。
父の遺骨を手で掬い、水面に流す。この日は波も穏やかで、さらさらと、気持ちよさそうに海の中に溶けていく父の骨。
父が一度として泳ぐことのできなかった海。
ねえ、パパ、陽の光が射し込む海は、温かいでしょう?
穏やかな波に揺れる海は、気持ちいいでしょう?
もう風邪をひく心配はないから、思う存分、水と戯れることができるね。
語りかけながら、海面にレイを浮かべる。エメラルド色に輝く海に原色の花々が漂い、父は、ようやく愛するハワイの海へ還っていった。
「最後に2、3週しましょう」
船の上から、花に囲まれた父を見届けて、散骨は終了。
証明書など死者にとっては無用の物。散骨は豪華なものである必要はない。そこに見送る人間の心さえあればいい。
こうして文章にしてみるとあっけないけれど、想いを込めて、故人を愛した場所に還すという責務は果たすことができたかな、と思う。
父は今、きっとあの海で幸せに眠っている。
それとも……。
私は見ることができなかったクジラの大きな背中に乗って、ハワイ諸島を漫遊しているかもしれない。
もしかしたら、ちゃっかりロコに生まれ変わって、サーフボードで波の上を滑っているかもしれない。
そんな風に思えることが、残された者の心をも救ってくれるのです。
::エピローグ::
ハワイを去る前日、夕刻のワイキキ・ビーチに出てみました。父に、この旅最後の挨拶をするためです。
美しいサンセットを見届けようと、たくさんの観光客が集まり、ビーチは賑やかな声であふれています。
そこかしこからハワイアンが流れ、暮れゆく空の色にこれほどふさわしい音はないだろうと、私はうっとりと太陽を眺めていました。
その時、波打ち際に、若い日本人女性が一人佇んでいるのを見かけました。
なんてことのない光景なのですが、それが、どんなにか珍しいことか、ハワイを訪れた人ならばご理解いただけると思います。
日本から来た若い女の子が、一人でハワイの夕陽を見つめているのです。
ビーチ・サンダルを後ろ手に持ち、次第に満ち潮になってゆく砂浜に足を埋め、波が押し寄せようと臆することなく、静かに海を見つめている。
おそらく、彼女がハワイを訪れたのは、ブランド品を買い漁るためでも、仲間と騒ぐためでもないでしょう。
彼女の胸に去来していたものが何なのかは知る由もありません。けれども、彼女は何かと決別するために、この地に立っているではないかと、私は思いました。なぜなら、ストレスも悩みもない人間があれだけの長い時間、海を見つめることなど、決してないからです。少なくとも、私にとって海とは、そういう存在です。
人は色んな想いを抱えて旅に出ます。
誰もがその地に、重い心を置いてくるのでしょう。
「学生時代に海外を見ておきなさい」と、初めてのハワイ旅行の資金を惜しげもなく差し出してくれた父。
「披露宴なんかやらなくていい。お金は出してやるから、ハワイあたりで結婚式をやりなさい」
私がまだ少女の頃からそう言っていた父。 憧れのハワイへの想いをそうやって私に託していたのかもしれません。
晩年になってようやく降り立つことができたハワイの地。父にとってのハワイは、まさしく地球の果てだったのです。
父が亡くなって散骨を終えるまで、ずっと私は迷路の中を歩いていたような気がします。それは父とて同じことだったのではないでしょうか。
最後に、私はワイキキの海に向かって囁きました。
私をこの世に誕生させてくれて
ありがとう
健康な身体をありがとう
たくさんのわがままを叶えてくれて
ありがとう
あなたの娘でいられた日々を
ありがとう
この海よりも大きな愛を
ありがとう
「またおいで」
太陽の残照に赤く染まった海から、父の声が聞こえるような気がしました。
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