他者に対する行いは我が身に帰る(農耕・牧畜がよろしくない理由)
以前、家畜人ヤプーという記事を書きました。今回の記事は、その焼き直しのようなものです。
人が1万2千年前頃から始めた農耕生活は、人の歴史を作り替えました。
農耕は『取る文化』であり、それまで人類が続けてきた狩猟採集生活という『残す文化』とはまったく異なる歴史が始まりました。
取る文化は世界中を人類の都合に合わせて変えていくことになりました。本来であれば多種多少な動植物が生息していたはずの土地を、特定の数種類だけが生育する土地に変え、あるいは地面を広く踏みしめ、家を建てて定住していきました。こうして、農耕に利用しやすい場所はどんどん人工化され、やや農耕に向かない土地も牧畜や遊牧に利用されていきました。
土地が人工化されていくにつれて、社会制度も強化され、生活の糧を得るために社会に依存する度合いも増して、人々は自由を失っていきました。これは、人が農耕によって土地や植物を管理下にいれたことが、まさに、我が身に跳ね返ったことと同じなのだろうと私は考えます。支配者たちの都合のよい大衆だけが生息できる大地が広がったのです。
スタジオジブリの『おもひでぽろぽろ』に、田舎の風景は手つかずの自然などではなく、人が作ったものであるという指摘が出てきます。
私も、このセリフを初めて聞いたときに、「ああそうだよなあ」と思ったような覚えがありますが、もうずいぶん前のことなのでぼんやりしています。ただ、そのころの私は、もう子ども頃から見ていた向いの山が、植林によって作られた風景であることは知っていたので、再確認をした感じだったかもしれません。
農業は、自然を壊してしまっては成り立たない産業でしょう。ですから、昔の人たちは自然を大切にしていたことは確かです。けれども、江戸時代の日本は、すでにあちらにもこちらにもはげ山ができ、ニホンオオカミも住処を亡くして減り始めえていたような状態でした。江戸幕府は、自然荒廃を食い止めるために、家畜の数を減らし、それまで家畜にやらせていた農作業も人力で行うようにさせたほどでした。
明治からの歴史の中で、美しかった川はダムで細り、工場排水で汚染され、海岸線には工場が立ち並び、護岸工事の繰り返しや、大規模な土木作業で、国土は破壊されていきました。季節ごとにいろいろな自然の恵みを家の近くで得て楽しんでいた人々は、そうした旬の食材を得る場所をなくし、加工食品や遠い外国からの食べ物を、労働の対価として得たカネで買ってくらすようになりました。これは、農耕を始めた人類が必然的に通る道なのでしょう。
まだ人類は、創意工夫を重ねれば何とかなると夢を見て農耕文明をさらに先へ進めようとしています。けれど、どんなに工夫を重ねても破綻を防げなくなる未来はすぐそこまで来ていると私には思えます。大衆をスマートシティに閉じ込め、デジタルで完全監視して、あらゆる活動を制限した未来に到達するのか、地球環境を破壊しつくしてしまうのか。どちらにせよ、楽しく明るい未来ではありません。
家畜の暮らしは、野生動物の暮らしと比べると快適で安全な面があります。農耕が可能にした文明生活も同様でしょう。狩猟採集生活は遊動を必要とするため、物も多くは持てず、貯蓄もなければ、医者もいません。農耕が広まった理由には、安全性や快適さが増したからという側面もあるでしょう。けれど、都合の良い生き物だけを選んで管理する農耕という生き方は、やはり我が身に跳ね返ってくるということを肝に銘じておく必要があるのではないかと私は考えます。
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