【2018年を振り返ってみた→2019年の生き方へ】
ちょっと長くなります。
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2018年は僕に大切なことを気づかせてくれた一年だった。
〈前半〉
底上げというNPOのキャンプに参加してひたすら自分と向き合った。
今まで自分は自分のことをよくわかっていると自惚れていた僕に、
なんとなく自分の体験を語りながら自分を誤魔化していた僕に、
本音を隠して上っ面だけで周りの人達と接していた僕に、
嘘や見栄、虚栄心を満たすために鎧を纏っていた僕に、
そんなことしなくても僕を僕として受け入れてくれる人たちの優しさ、
ヤケになり、タガが外れてむき出しの僕を笑ってくれた人たちの温かさ、
自分の弱さをさらけ出して、心を裸にする大切さ、
を教えてくれた。
このおかげで、自分の言葉に血が通うになった気がする。
自己開示もできるようになった(気がする、多少!)
そしてかけがえのない友人たちができた。
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〈後半〉
当たり前になってい大切な友人と離れた。
僕はそばにいてくれた大切な友人が
そばにいることを当たり前のものとして考えてしまっていた。
その人と物理的にも精神的にも”離れた”時に
「僕の全てを受け入れてくれる」
「この人はずっとそばにいてくれるもんだ」
とか思っていたことに気づいた。
当たり前じゃない時はその人に感謝したり、ありがたみを噛み締めていたが、
その環境に慣れていくと、そういう感覚は鈍くなっていく。
ずっとこれが続くんだろうと、
勝手に思い込んでいたのだ。
自分の周りにいる人やものが実は当たり前ではない。
そんな当然のことに気付かされた。
加えて、人間の思考や感情というものは絶えず変化していく。
変わらないものはないのだと知ることができた。
でも
そういう普遍なものがなく、不確かなことばかりのこの世界の中で、
僕は何か「これ!」という確かなものを探していただけだったのだ。
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そして、この時、気晴らしに写真を撮ることを始めた。
もともと自然とか子どもの様子を見るのが好きだったので、
そういう瞬間や風景を撮りたいなと思って、思った二日後に買ってしまった。
写真を撮り始めると、身のまわりの自然がカラフル過ぎることを知った。
自然を撮ってると「これは〇〇色だ」「あれは□□色だ」とか思うことが多いのだけど、
自然の色は多様すぎて、〜色と表現できなかった。
ここでハッとしたのは、
〜色と名付けてしまうことは、その色を持つ対象を
乱暴に〜だ!決めつけ、個性を無視することなのではないか。
そういうことを知らず知らずにしてしまっていた自分に気づいた。
僕は自然に限らず、身のまわりの人達へも同じように
乱暴に「〇〇さんは〜人!」と考えしまっていたのではないか。
本当はその人はその人だけの色が持っているはずなのに。
きっと僕は大切な友人のある一面や刹那的な面しか見ないで、
「この人はずっといるだろう」とか「この人は僕の居場所だ」とか
押し付けていたのだろう。相手のことを見ないで。
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さらに、毎日空や雲、夕焼け、身のまわりの自然を撮っていると
実は毎日色が違っていた。
特に空の色、夕焼け空とか当然かもしれないけど、全然違う。
同じ空や雲や夕焼けはない。本当に1つもない。
「今見えている美しい夕日は明日は見られないんだ」
そう思うと今のその光景がとても儚く感じたけど、同時に愛おしくなった。
そうしたら同時に、
「明日はどんな美しい夕日が見られるかな♫」
こんな風に次の日が楽しみになった。
この感覚になった時に、
「今」の大切さと「先」への希望が僕の頭に同居するようになった。
人も自然も常に変化していて、変化しない当たり前なんてない。
だから、当たり前じゃないのに、当たり前に感じさせてくれる「今」その瞬間の大切さを
噛み締め、感謝し、
変化していく人や自然のその先にワクワクしたい。
極論僕だっていつ死ぬかわからない、そんな不安定の存在なんだ。
だから今を生きよう。
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というわけで、2019年は、
人生これから先のビジョンを持ちつつ、希望も抱きながら
「今」この瞬間を大切に、そして丁寧に生きる。
「今」向き合っている人や自然に真摯に、全力で臨み、刹那的に生きる。
それだけだ。