再・居住 re-habitation
思えば私の母は信心深い人だった。そして、84歳になる今も。瀬戸内海の小さな島で今も生まれた場所を離れることなく、お寺に通うことを楽しみにし、気の合う友だちと連れ立って寺の行事のあれやこれやらを手伝い、お墓を掃除して、お墓参りすることが自分を守ってくれることだと信じている人だ。私もまた、小学校に通う途中の小さな峠の切り通しにあるお地蔵さんにパンパンと手を合わせ、「まんまんちゃん、あん」というのを大切な習慣にしていた。それさえやれば、今日もなんとかなる、と信じていたような気がする。
だからかもしれない。おんちゃあがブナの大木や、お不動さんに手を合わせて深々と頭を下げて拝む姿を見て、とても懐かしくて安心できる「場所」に帰ってきたような気がした。瀬戸内海とはまるで違う異国の山ではあったけれども。
遠野はいろいろなご縁が重なって移り住むことになった。大学から住み始めた東京は居心地が良くて、大切な友達に囲まれてとても恵まれていたと、今となってはとても懐かしく宝箱のようだが、その時は、そのコンフォートゾーンからとにかく抜け出して、新しい場所から新しく始めなければならない、と思い詰めていた。
住んだことのないどこか、自然の豊かなところ、猫や犬と住みたい、できれば子育てもしてみたい、そんな気持ちがムクムクと湧き上がってきた。それは旅行や短期滞在ではだめで、住むこと、そこで暮らすことをしなければならない、と強く思っていた。
なぜだか、わからない。
週末になると、小石川植物園に出かけた。樹木にはそれぞれ名前と説明が書かれた札がついていた。仕事の日も、私の目は街路樹や草をさがしていた。職場は都心だけれども閑静な住宅街にあり、昼休みになると散歩して路地の草花を見つけては名前を調べたり、机の横にガラスの一輪差しをかけて飾ったり、草や木に切実なほどに救いを求めるような心持ちになっていた。
「ノボロギク」
コンクリートの裂け目から生えて小さな黄色い花をつけたその草の名前に、小さな義憤を感じた。ボロっていうのはあんまりじゃないか。
「えーっと、なんていいやんしたか、かわいそうな名前の花がありやんして」
遠野で出会った三浦徳蔵さん、「おんちゃあ」の口からからノボロギクの名前を聞いた時には、あの時の思いがここでつながったことに不思議なような気もしたし、同時に嬉しかった。
おんちゃあのお家は、遠野の北東、宮古市へ抜ける立丸峠の手前の「恩徳」という集落にあった。
「立派な漢字でやんすが、うーんと奥(おく)、という意味じゃねえすか」
おんちゃあはここで生まれ、ここの土地の植物はもちろんのこと、この土地で生きていくための知恵を育み積み重ねながら、大きな美しい一つの宇宙の中の住人として軽やかに微笑んでいた。
おんちゃあが家の前の大きな池の辺りを案内してくださった。一歩踏み出すごとの足元の草がどれもこれもおんちゃあの幼馴染の遊び仲間のように親しげに出迎えてくれた。見慣れない草花が、ファンタジーのような異国の佇まいで見上げている。
4年ほど前になるだろうか、『リジェネラティブ・リーダーシップ』の原著で引用されていた『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化 』を読んでいて「再居住」という言葉を見つけた。
移り住んだ場所で、ぎゅっと心に握りしめていた思いは、そういうことだったかもしれない。新しく入ってそこに住むからには、「原住民」にならなければならないのだ、と。それが過ぎて「正義」を振りかざしそうになることもあったと今となっては苦笑いするしかないが。
移り住んだばかりの最初の夏、おんちゃあが「おやまの道びらき」に誘ってくださった。旧暦の七月七日、山の上にある権現さままで道を草刈りをしながらお参りする祭礼があるのだという。
「子どもを授かりたいなら、ここの権現さまがよがんす」
あれから29年の歳月が経った。娘は27歳。
おんちゃあに娘の名付け親になっていただくお願いをし、「植物」で「あ」の音がついている名前を、ということで考えてくださったのだった。
私は今も夫と共に遠野にいて、馬、犬、猫との暮らしを続け、3年ほど前から小中学校で特別教育支援員としての仕事を心から楽しんでいる。馬との暮らしから、馬の絵本や小冊子を友人と一緒に作ったり、クイーンズメドウで身体知や関係性を感受する場を開くことも昨年から始めた。
はたして私は、「ひとつの場所のなかで、ひとつの場所とともに、十分に生きるということ。生物的コミュニティの一員にしてもらうこと、コミュニティの搾取者であるのをやめること」そういう道を歩いているだろうか?
さて、昨年の暮れから『精神の生態学へ』(グレゴリー・ベイトソン 佐藤良明 訳)上・中・下3巻を読み進めて、今、下巻の最終章「都市文明のエコロジー」を読んでいて、これまでの私の生の遍歴を新たな観点から見ることができるなあと、刺激になったので引用する。
ベイトソンの言葉を読んでから、いろいろ思い当たることがある。私の生の軌跡を振り返ってどうだろうか。とはいえ、記憶は曖昧模糊として混ざり合っているし、くっきりとした軌跡なんて見あたらない、線を結んだとしても、それは今の思いつきの恣意的なものにすぎない。ひとつの場所を十分生きることと、柔軟性を保持していくこと。
正しいかどうかで迷うこともあるけれど、私の命は喜んでいるかどうかにも耳を澄ませたい。間違ったら、ごめんなさい、謝って、また戻って始めよう。こっちかな、あっちかな、予測するけど、外れることもある。
ストカスティック、という概念は、いい。不安や恐れを手放すのを助けてくれる。働きかけて、そこで起こることを好奇心を持って感受する、次はどう出るか、待つか、引くか、逃げるか、、、
これからの柔軟性を鍛錬する旅路の杖にしよう。カバンにはお気に入りの本を入れて。そうして、また、ひとつの場所に還ってこよう。
徳吉敏江
🌟ゆるく募集してます💫
ベイトソンの『精神の生態学へ』の読書会をオンラインでどなたか一緒に始めませんか?少しずつ、読み進めながら、感想を交換しながらというスタイルで。やりましょう、という方、いらしたら、メールでtoshierubia@gmail.com までご連絡ください。