続けるも続けないのもアリ #ハッピーになるかもしれない朝エッセイ
ダイエットを始めてはや1年が来ようとしている。
ピアノは12年。
嵐のファンは10年。
noteは3年半。
5年日記も、あと2か月ちょっとで書き終わる。
若いころは飽きっぽくて、続けるのが苦手だったのに、年を経るごとに続けることが苦じゃなくなってきた。
noteで3年半を過ごしてきて、たくさんの人と知り合った。今も交流が続いている人もいれば、毎日更新したり、面白い文章や企画で、読者の注目を集めた人も、いつの間にか更新が途絶え、街に姿を見せなくなることがある。
勝手な見解だけれど、若い人の中に、そういう人が多い気がする。
私もそうだったように、若い頃って、自分も周りも変化が激しい。
進学したり、就職したり、人生の壁にぶちあったたり。子供がいれば、自分の生活より子供の生活が最優先。子供が病気になったり、怪我をしたり、同級生ともめたり、学校行事に奔走されたり、毎日振り回されっぱなし。
何かを継続するなんて、到底できる環境じゃない。
年を経た私の体は老化の一途をたどっているし、受験生に老いた両親、心配事はたくさんある。年を重ねても、変わっていくものがあることは変わらない。
ただ、その変化も緩やかだと感じる。
それは、経験が増えて、多少の変化は、おおらかに、柔軟に受け止められるようになったからではないかと思う。
あと、自分が続けられることかどうかの取捨選択もうまくなったと思う。
そう考えると、こうやって何かを継続できるのは、それだけ大人になったからかな。
だから、飽きっぽくて悩む必要なんてなくて、それは自分が変化の波の真っただ中でもまれて、もがいている証拠だし、経験を積んでいるってこと。
また、継続できることは、うまく社会と折り合いをつけて、変化を乗りこなせるようになったからだし、どっちもアリなんだと思う。
まあ、親しくしていた人が街から出ていくのはちょっとさみしいけれど、それも彼らの新たな一歩なのだと、温かく送り出したい。それが、ここで待つ大人の役目。