「言葉を書く」という表現について
「言葉を書く」ことが好きだ。
僕は脳に内在する思考を留めることができず、Twitterやnote、会社の資料でもなんでも、言葉を媒介として外界へ出力する。
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僕は「言葉を書く」という行為について、絵を書くことや彫刻刀で像を削り出す表現と同じイメージを抱く。
脳に思考が貯まると、漠然としたイメージが浮かんでいる。それは、目の前の太い丸太の中に、像を見出すようなイメージだ (下図)。
しかし、イメージなので脳内の輪郭はこんなはっきりとしていない。いつも、曖昧なイメージを内在した丸太を前に、よっしゃと腕まくりをする。
この丸太に対して僕の扱える武器は多種多様だ。柔い曲線を生む丸刀や、無機質なイメージを与える角刀、拘りの表現を切り出す薄い一枚刃から、彫刻刀どころか無骨に大きく削り出すチェーンソーまである。
これらの武器は、言葉では「語彙」や「文章構成力」と言われる。
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でも、自分は掘り始める前に武器を横目に、この像は誰にあげるんだっけと考える。そもそも、削り出す目的は相手とイメージを共有することだ。
もし、その相手に自分のこの像の「好きな(エロい)ところ」を伝えたいとしよう。
相手が西洋美術に精通した相手ならば、最後まで掘らずとも、身体のエロい曲線美だけをチェーンソーで削り出せばいい。その曲線を見せれば、きっと相手は「ああ、それエロいよね~」と共感してくれるだろう。
こち亀で、かの有名な「プロ同士多く語らない」というやつである。
でも、相手がその分野に明るくなかったとしたら、細部まで削り出さなければそのエロさは伝わらないだろう。
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自分が伝えたいイメージは、スタートの時点で相手とどのレベルで共有できているか。その、共有に対する感度は、「伝える」という目的の達成に対してウェイトが非常に重い。
人は相手に伝えようとするとき、相手とのイメージ共有度を前提として言葉を紡ぐ。いわゆる「文脈」というやつだ。極論で例えをだすと、アメリカ人相手に、日本語で押し切る人はそういないはずだ。
その感度は、目の前の相手と向き合うことで養われていく。
もし、自分が話している途中で相手が目が逸らしたり、眉を顰めたりしたら、想定していたより文脈を共有できていない。すかさずそのサインを逃さずに、その場でフィードバックし補正をかけていく。「相手の理解がない」ではない、「自分の相手への理解」が無いのだと常に意識する。
そうして、少しずつ、感度が上がっていく。
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感度が成熟すれば、像を掘り出す手が止まることはない。
なぜなら、その相手にあげるべき像のイメージは完璧だし、その形を表現するために選択すべき武器も見えているからだ。
クルクルと彫刻刀を回しながら、歌うように、像を紡いでいく。
そうしたらいつの間にか、あるべき像は手元にあるはずだ。
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僕は「言葉を書く」ことが好きだ。
思考を形として外界に曝け出し、人から反応をもらうことで、自己の輪郭を認識する。
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一方で、顔を歪ませ紡いだ言葉が伝わらない時は、苦しい、滅茶苦茶に苦しい。
その時もどうにか、その「伝わらない」責任を自分の表現に手繰り寄せる。顔を上げ、伝えきれなかった相手の目を見て、なぜ伝わらなかったのかを考える。
そして、再び両足が立てたのなら「ここのエッジが微妙だったな…」と、彫刻刀を手に取り、顔の角度を変え、今日も丸太と相対していくのだ。
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余談①
Twitterは非常にいい。
僕はフォロー・フォロワーの層を特段限定していないので、不特定多数の人の彫刻を無料で見ることができる。
ツイートする時はあまり繊細に削ってはいない。でも、思わぬところからふぁぼをもらえば、その人の彫刻と比較し「あ、ここが同じなんだ」と共有点を見つけることができる。
あらゆるSNSの中で、「感覚」醸成について、得るものの量・質ともに圧倒的だと思う。
たまに用量・用法間違えてこじらせるけどね。
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余談②
自分の仕事はスピードが早く、的確だ。自分で言うなと言われても明らかにそうである。
気をつけていることは上述したように言葉、1点につきる。
特に仕事の最初と最後、その2回だけは「左上から右下に読めば全て理解できる言葉」を作る。そして、その場で「理解しましたよね」という言質を取る。それだけで仕事は期日までに締まり、成果になる。
「最初」は途中に口を挟ませないため、「最後」は後に口を挟ませないためだ。
途中はその場で相対する人との感覚共有レベルに合わせて言葉を紡ぐ。要点をつかめば、その資料は1枚5分でできる。チェーンソーで削るだけだし。
緩急って大事だと思う。
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