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僕の高い給与は、何に対する対価なのか

僕は室蘭の製鉄所で大卒技術職として働いている。
一緒に働いている高卒で現場の方とは、もらう給料が大きく異なる。

給与体系は同じだが、昇格速度が倍以上違う。
僕は30歳になる頃に、現場の人が40年働いても到達できない階級になり、その階級の給与をもらうだろう。

この給与の差は、どこに由来するのだろうか。

それは付加価値を生むか、生まないかだ」という人がいる。
その言葉を聞くと、いや待て待て…という気持ちになる。大卒は付加価値どころか価値を生んでいない、工場を操業して価値のある製品を生んでいるのは現場の人達である。
それを忘れたように、付加価値を生んでいると言い張るのは流石に無理がある。また、現場の方も日々操業改善の方法を考えているではないか。

付加価値を生むか生まないか、これは流石に傲慢だろう。

現職場の長は「Noblesse Obligeだ、エリートである自覚を持て」といった。また「我々が仕事をしなければ、この街はなくなる」とも。
実際に競争力がないと判断され、3年後の閉鎖が決まった呉製鉄所を抱える地域では、雇用問題が既に問題になっている。

Noblesse Oblige、これは僕の考えと割と近い。


僕は「決めるか、決めないか」だと思う。
決定とは、技術屋ならば現象観察・集めたデータで組み上げるロジックから見出した方針だろう。
その決定が間違っていて失敗した時のリスク、それを考えると決めない方がオトクである。現状維持さえすれば居場所はあるのだから。
しかし、決定することから逃げて現状維持をするだけでは、競合他社に食われてやがては滅びる。
そして、同時に街ごと消えるのだろう。

常に決めるしかないのだ、会社のみならず地域の人を背負う責任に対して、自分のロジックを自分の杖にして、自分の脚で立つしかない。

僕はこの決定プロセスに対して、高い給料をもらっていると解釈している。

職場には決めない人がいる、データは取るが「で、そのデータで何を決めたいの?」も聞いても何も話さない人が。
責を果たさないなら給料返上しろよ、と思っている。

自分の信念で決めること、これを果たす人が増えれば、弊社どころか、この国に立ち込めた暗雲とした雰囲気を吹き飛ばせると思う。

人とどう対話していけば、決める人が増えるか。
最近のずっと考えている、目下の課題である。

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