「在りたい」の根源を探る
ここ1ヶ月くらい「在りたい」という意思の根源について考えている。
というのも、これまでの自己を省みる中で、自分を変えたい気持ちには下記の2種類があることに気がついたからだ。
・今と違う自分に「為りたい」
・今と違う自分で「在りたい」
そして、自身を変えることは難しいが、成功した時を振り返ると「在りたい」と思っていた。「成りたい」より「在りたい」の方が、自己変革に対し強力なパワーを持つらしい。
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自身の経験として
「目の前の人と向き合う人間で在りたい」
という意識があった。
いつからかは定かではないが、この意識を自己の根底に敷くことに成功してからは、汎用性の高い強力な自制心として機能している。そして、これが「在りたい」ではなく「為りたい」場合は機能しないだろうという確信がある。
この意識によって変革(制御)できた言動と、その裏にある意識をいくつか書き出してみる。
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・人の話を聞いている時に、口を挟むことがなくなった
→口を出しかけた価値観は自身のものであり、それを発するのは相手の価値観の否定であり、向き合うことを放棄している
・自分が話す時に「べき」という単語を使わなくなった
→「べき」は自分の正義による判断であり、その言葉を使うのは相手の正義の否定であり、向き合うことを放棄している
・自分の正義と噛み合わない事象でも、人の幸せそうなことを嬉しく思えるようなった
→相手が喜んでいることをそのままに喜ぶのは、相手の価値観の受容そのものだ。自身の正義は置いてその理解に努めるのが正しい
・すぐに素直な感謝の言葉を出せるようになった
→相手の言動に感謝を感じたのに、恥ずかしさ等の自身の些末な感情に阻まれるのは、向き合うことを放棄している
・安直なレッテルになる単語を使わなくなった(極例:ビッチ、クズ、ジジイ)
→目の前にいる人は固有の存在なので、レッテルを貼る言葉を使うのは一方的な理解の放棄である
・社内の人と喧嘩しても、その人自体を嫌いになることが無くなった
→意見が対立したとしても、それはその意見固有の問題であり、相手の人格には関係ないため切り離すのが正しい
・言葉選びの基準を相手に合わせられるようになった
→自分が分かる言葉だけを使うのは、相手の認知を無視している。共有できる言語を常に探るのが正しい。
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実態は、まだ上記のようなことをやりかけることはあるが、行動を起こす直前に
「それは相手と向き合う人間として在れているのか?」
という自問が半自動的に入り、強力な引力としてその存在から逸脱しようとした自身を留めてくれている。
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この存在に対する「引力」のようなものが、「在りたい」の強い制約の根幹だろうと睨んでいる。
「為りたい」では、明らかにこの「引力」が希薄なのだ。
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「在りたい」は、「為りたい」をより深化させた上位概念なのだろうか?
それだと単純に頑張ったからより強い制約になっているという結論になる。
しかし、もしその思考/実行プロセスが根本的に異なるのであれば、人が変わりたいた思った時に味わう苦しみを軽減できるのではないだろうか。
そんなことを考えながら「在りたい」の根源を探り続けているが、まだその言語化には至れていない。
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