人を襲う「退屈」と、そこから逃れる方法
「暇と退屈の倫理学」を読みました。
「退屈」とはなにか?
「退屈」はどこから来るのか?
人類はどのように「退屈」と向き合ってきたのか?
あたりを、ストーリー建てて考察した良書でした。
明快なロジックで書かれた内容で、見た目の割にさくっと読めるのでぜひ読んでみてください。
○ 内容要約
哲学者ハイデッガーは、人を襲う「退屈」に対して「退屈しないためには『決断』することだ。退屈は人に自由を教える、決断によりその自由を発揮せよ」と結論づけた。
それに対し、本書では
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決断は人を「決断されたこと」の奴隷とする。そこからの焦燥感に駆られると、かえってたまの空虚な時間に対し、甚大な自己喪失「退屈」を感じる。
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と批判を展開する。
だとすれば、「退屈」からどのように逃れればいいのか?
本書ではその結論を、
・〈人間であること〉
贅沢をすること、ものを楽しめるようになること
・〈動物であること〉
目の前のものに、自意識全てを「とりさらわれる」こと
とした。
もう少し具体的にいえば、
「新しい車」を買うのであれば、「新しい」という空虚な価値ではなく、その「車自体」を見つめなさい。「消費」ではなく「浪費」して、そのものを受け取りなさい。
(「そこ」自体ではなく、「そこに行った」という情報を貪り「消費」する『インスタ映え』的思想への痛烈な批判である)
「もの」自体を楽しめるようになったら、その瞬間はそれだけに自分を連れ去ってしまうようなものを見つけ、その瞬間を受け取れるように待ち構えなさい
と、いった結論である。
○ 所感
めちゃくちゃ端折った要約だが、なるほど明快な結論である。
この結論を受けて「ああ、自分にとって登山はまさにそんなものなのだろう」と思った。
その瞬間だけは、自分とそのものだけで構成されたシンプルな世界に取りさらわれてしまう。その瞬間は完全に「退屈」と無縁である。
なんとなく人を襲う「退屈」は、こんな毎日でいいのだろうか…と謎の焦燥感を生み、人を苦しめる。SNSによりあらゆる人の思考が可視化され、自己が安易に相対化されるようになった現代において、その焦燥感は加速された。その苦しい世界から切り離される瞬間は、その累積をリセットし、明日からの毎日を生きていくための「杖」となるだろう。
みんな大好きオリエンテーリングで言えば、しばけんのこのツイートは端的にそのことを表現している。
そして突き抜けた先が、アルピニズムの世界なのだろう(下記記事参照)
さすが我らの篤さんや!
自分でしばしば考えていた、『山を登るうちに、何故どんどん「過激」な事をやりたくなるのか?』という命題があった。
その答えは「『退屈』から逃れるため」なのであった。なんとスッキリ。
1月には雪山合宿を控え、来る次シーズンにはアドベンチャーレースやアルパインクライムの時間を多くとるつもりだ。
とても今から楽しみで仕方がない。
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