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人の死に対する「悲しさ」について

初配属の中央研究所で3年勤務後、室蘭に転勤して2ヶ月が経った。
昨日の午前、業務でちょっと嬉しいことがあり、前職場の長にその報を連絡した。

メールを書く途中に、適切な指導のおかげの今だなと感謝が湧いてきたので、末尾に
「これまでの指導に感謝しています、1年後に数字で返します。これからも宜しくお願いします」
と追記し、送信した。

その返信は、
「元気が出るメールをありがとう。
昨日、君の元上司が急逝し、私も何も手につかない状況の中、頑張りを聞いて少し気力が戻りそうです」
と、想定の遥か外からだった。
心不全とのことだった。

――
その元上司は、1年目10月~2年目2月と1年半近く、私の指導を担当していた。

とてもやさしい人で、いつも「無理しないでね」と声をかけてくれていた。
おもしろいデータが取れた時は、2人で悪だくみをしているかのように打ち合わせをした。
仕事の進捗がなく、もやもやする時期は「一杯行きましょう!」と声をかければ、いつでも付き合ってくれた。
論文を書く筆が全く進まない時は、朝まで横で議論をしてくれた。

室蘭に異動してからも、毎日のように「無理しないでね」と、お決まりのLINEが来ていた。
やさしい人だった。

――
半面、元上司はつかれている人だった、ひどく。

長く大きな理不尽に晒され続け、心が壊れてしまっていた。
どんな薬を飲んでも寝付けることはなく、毎日酒で自分をつぶして寝ていた。変えた薬が身体に合わなかった日は、1日しんどそうに上を見ていた。
口癖のように、淀んだ目で「私はクズなんで」と呟き続けていた。

――
人は身近な人が亡くなると、「悲しい」と感じる。
自分にもこれまで恩師の突然死や、友人の自死があったが、実感は持てず「最近会ってないな」の延長。特に悲しみを持つことがなかった。どちらかというと、悲しくない事が悲しいくらいだった。

でも、今回はかなり悲しくて、帰宅後ランニングしながら「これはなんだろな」と考えていた。
お決まりの台詞の「もう会えないこと」は、相変わらず実感をもてないので違う。
「もらった分を返せなかった」、確かにもらったものは数多くあるが、返す必要があるのだろうか。そもそも返すとは?

ーー
ごちゃごちゃ考えながらも、ランニングも折り返し地点に来たあたりで、腑に落ちた。
元上司の積み上げてきたものを受け取り、理解し、その上で「自分がさらに積んでやったぞ!」と見せつけることができなかった。
間に合わなかったこと、自分のその不甲斐なさが悲しいらしい。
ああ、これか。

――
どんな小さな結果でも、報告をもっていけばいつでも拍手してほめてくれていた。
なんとも嬉しそうにするので、些細なことでも報告するようになった。
研究を始めて1年やそこら、出せる成果なんて先人の猿真似に近い。それでも嬉しそうにしていた。

もし、いま胸を張って世界一だと宣言できるような僕に技術があったならば、それを見せることができたら、どれだけ嬉しそうにしてくれただろうか。あのつかれた顔を、喜ばせることができただろうか。
死の間際で、自分の無力さを呪ったりしなかっただろうか。僕はこんなにもらっていたのに、それを示すことが間に合わなかった。
感じた「悲しさ」は、自分に対するものだった。

――
つい4日前まで毎日来ていたLINEは、いつも通り「無理しないでね」「そちらこそ無理せず休んでください」のやりとりを最後に、通知がない。

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